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            総 別 の 二 義

総別の二義

 総別の二義は、「一往(いちおう)・再往(さいおう)」、「当分(とうぶん)・跨節(かせつ)」などと同様に、本宗教義のあらゆる法相法理(ほっそうほうり)の裁きに応用される語です。「総」とは全体に通じる一往の意味、一般的な意義をいい、「別」とは総に含まれる特別な再往の意義、肝要の意義をいいます。また法相の上からは、一往の総別を立て、さらに別の中に再往の総別を立てて、肝要の義を顕わすこともあります。

 さて、総別の二義について『曽谷殿御返事』に、次のように仰せです。 「既に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。是れ智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是には総別(そうべつ)の二義あり。総別の二義少しも相そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死(りんねしょうじ)のもとゐたらん」(新編1039頁)  ここでは、法華経の総別の付嘱の筋目から、付嘱の法と付嘱の人について御指南されています。

総付嘱とは、正法・像法弘通の法華経、及び一切の教法の付嘱で、法華経の会座(えざ)にあった一切の菩薩等に授けられました(嘱累品・ぞくるいほん)。また別付嘱とは、末法に弘通すべき文底本因妙の結要(けっちょう)付嘱で、ただ地涌の上首・上行菩薩に授けられたのです(神力品・じんりきほん)。故に末法で法華経を受持信行する場合、別付嘱である上行所伝の妙法を閣(さしお)いて、文上熟脱(もんじょうじゅくだつ)の教法に執着するならば、総別の筋目から、決して仏道を成ずることはできないと仰せられているのです。

 さらに『御義口伝』では、仏身に約して、 「如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり、別しては本地無作の三身なり。今日蓮等の類の意は、総じては如来とは一切衆生なり、別しては日蓮が弟子檀那なり。されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云なり」(御書1765頁)と御教示されています。一往、在世本門の立場から三世を束(つか)ねて、如来とは釈尊とし、そこから総じては十方三世の一切諸仏、別しては本地無作三身と仰せです。つまり、本門の釈尊以下の諸仏は、すべて本地無作三身の垂迹仏(すいじゃくぶつ)ですから、総別をもってその浅深の次第を示されたのです。

 また次に、再往、久遠元初即末法の立場から、無作三身如来を判じられています。すなわち、総じて如来とは仏性を有する一切衆生であるが、別しては日蓮大聖人とその一門に尽きると仰せです。またこの別の中に、さらに総別があります。如来とは総じて「日蓮が弟子檀那」ですが、別しては本因妙の教主・日蓮大聖人ただ御一人に尽きるという義です。このため、本地無作の三身とは、久遠元初即末法の法華経の行者日蓮大聖人にして、人法一箇の上から宝号を南無妙法蓮華経如来と称すると決せられているのです。

 このように、総別の二義は、在世と末法、下種と熟脱、また妙法教主の別など、法義上、重々に使用されています。しかも、その一々が大きな仏法の筋道を示しますから、法相の構格を決する重要な法門といえましょう。

大白法 平成9年3月16日(第474号)より
  教学用語解説(25)

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