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          法華経如来寿量品 第十六

良医病子(ろういびょうし)のたとえ<如来寿量品第十六>

大 意

冒頭、仏が教説を信受すべきことを三度誡(いまし)め、菩薩たちが三度説法を請(こ)うという三誡三請(さんかいさんしょう)・さらに請い、重ねて誡めるという重請重誡(じゅうしょうじゅうかい)からはじまります。

このことは、『方便品』の三止三請・重請許説(じゅうしょうこせつ)よりもさらに丁寧なもので、これからなされる仏の説法がいかに重要であるかを示唆(しさ)するものです。

その説法とは、釈尊はインドにおいてはじめて悟りを得た「始成正覚(しじょうしょうがく)」の仏ではなく、実は五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)という久遠の昔に成道した「久遠実成(くおんじつじょう)の仏であることを、本因(ほんいん)・本果(ほんが)・本国土(ほんこくど)の三妙を説いて具体的に示し、仏の久遠本地と三世常住を明かされたものでした。

この仏の久遠開顕は「広開近顕遠(こうかいごんけんのん)」といい、これまでの仏身に対する認識を根底から覆(くつがえ)すものでした。 これによって、事の一念三千(じのいちねんさんぜん)の法門が明かされ、一切衆生の成仏も具体的となりました。

この意義から『寿量品』は、法華経の中において、もっとも肝要な一品であるとともに仏教全体の眼目となるのです。

当品では続いて、仏の三世常住を「良医病子の譬(ろういびょうしのたとえ)」として説かれ、さらに「自我偈(じがげ)」でこれらを重説されています。

良医に百人にも及ぶ子供がいました。

あるとき、 良医が留守中に子供たちが誤って毒薬を飲み、苦しんでいました。

そこへ帰った良医は、良薬を調合して子供たちに与えましたが、本心を失った子供たちは飲みませんでした。

そのため良医は方便を設け、父が他国へ行って死んだと使者に告げさせました。

父の死を聞いた子供たちは大いに憂い、本心を取りもどし、残された良薬を飲んで病を治すことができたのです。

良医とは仏、病子とは衆生にたとえられ、良医が家に帰って失心の子を救うとは、仏が一切衆生を救う未来の益を説いています。

自 我 偈 (じがげ)

自我偈(じがげ)とは、如来寿量品第十六の最後に語られた偈(げ/詩文)のこと。

本文
如来寿量品 第十六

自我得仏来   所経諸劫数   無量百千万   億載阿僧祇
常説法教化   無数億衆生   令入於仏道   爾来無量劫
為度衆生故   方便現涅槃   而実不滅度   常住此説法
我常住於此   以諸神通力   令顛倒衆生   雖近而不見
衆見我滅度   広供養舎利   咸皆懐恋慕   而生渇仰心
衆生既信伏   質直意柔軟   一心欲見仏   不自惜身命
時我及衆僧   倶出霊鷲山   我時語衆生   常在此不滅
以方便力故   現有滅不滅   余国有衆生   恭敬信楽者
我復於彼中   為説無上法   汝等不聞此   但謂我滅度
我見諸衆生   没在於苦海   故不為現身   令其生渇仰
因其心恋慕   乃出為説法   神通力如是   於阿僧祇劫
常在霊鷲山   及余諸住処   衆生見劫尽   大火所焼時
我此土安穏   天人常充満   園林諸堂閣   種種宝荘厳
宝樹多華果   衆生所遊楽   諸天撃天鼓   常作衆妓楽
雨曼陀羅華   散仏及大衆   我浄土不毀   而衆見焼尽
憂怖諸苦悩   如是悉充満   是諸罪衆生   以悪業因縁
過阿僧祇劫   不聞三宝名   諸有修功徳   柔和質直者
則皆見我身   在此而説法   或時為此衆   説仏寿無量
久乃見仏者   為説仏難値   我智力如是   慧光照無量
寿命無数劫   久修業所得   汝等有智者   勿於此生疑
当断令永尽   仏語実不虚   如医善方便   為治狂子故
実在而言死   無能説虚妄   我亦為世父   救諸苦患者
為凡夫顛倒   実在而言滅   以常見我故   而生驕恣心
放逸著五欲   堕於悪道中   我常知衆生   行道不行道
随応所可度   為説種種法   毎自作是念   以何令衆生
得入無上道   速成就仏身

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現代語訳

私が仏になって以来、経てきた時間は劫の数にして、無量百千万億載阿僧祇劫という数え切れないほど長い時間です。

その間には、常に法を説いて無数億の人々を教化して、仏道に導き入れて来ました。こうしてこれまでに、無量劫を経ているのです。

人々を救うため故に、方便で涅槃(死ぬこと)を現して見せました。しかし真実には、滅度した(死んだ)のではなく、常にこの娑婆世界に住んでいて、法を説いています。

私は常にこの娑婆世界に住んでいるのですが、さまざまな神通力で、意識が顛倒している(本心=正しい心 を失っている)人々には、近くにいても見えないようにしているのです。

人々は私が死んだのを見て、遺骨にさまざまな供養をします。 (仏を見ることがなくなると、仏は会い難いものだと思い)あらゆる人が仏を恋慕して、渇仰する心を生じます。

人々が、すでに教えを信じ、心が素直で柔らかく、一心に仏を拝見しようと欲して、自らの命も惜しまないようになる、その時私は、多くの僧とともに霊鷲山に出現します。

その時私は、人々に語ります。 「私は、常にこの娑婆世界にあって滅すること(死ぬこと)がないのですが、方便力をもって、死んだり生まれたりする姿を現します。

また娑婆世界(しゃばせかい)以外の他の国土に、仏を敬い教えを信じ喜ぶものがあれば、私はまた、そこでも彼らの為に無上の法を説くのです。

あなたたちは、このことを知らないため、ただ私が滅度する(死ぬ)と思っているのです。

私が多くの人々を見ると、みな苦しみの海に沈んでいます。それ故人々を救う為に、身を現さないことによって、仏を渇仰する心を生じさせ、その心が仏を恋い慕うようになったところで、姿を現して法を説くのです。

仏の神通力とはこのようなものなのです。 阿僧祇劫という長い間ずっと、常にこの霊鷲山ならびにその他いろいろな所にいるのです。

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(罪のある)人々が、(運命の許す時間が過ぎ)この世の滅する時が来て、大火に焼かれると見える時でも、私がいるこの仏国土は安穏で、神や人が常に満ちあふれています。

園や林にある あらゆる堂宇(どうう)・楼閣(ろうかく)は、さまざまな宝で荘厳(そうごん)され、宝の樹は、たくさんの花や実をつけ、人々が遊楽している所なのです。

たくさんの神たちが天の鼓を打って、絶えることなくさまざまな音楽を奏(かな)で、天から曼荼羅華を降らして、仏や人々にまき散らし、供養しています。

私の住んでいる仏土は、このように壊(こわ)れることはないのですが、(罪のある)人々は、この仏土が焼け尽きて憂いや恐れやさまざまな苦悩が、ことごとく充満していると見るのです。

このさまざまな罪のある人々は、悪業の因縁ゆえに、阿僧祇劫という長い時を過ぎても、仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝の名前を聞くことができないのです。

それに対し、あらゆる功徳を修(おさ)め、心が柔和で正直な人は、皆、私がここにいて法を説いているのが分かるのです。

仏は、ある時はこの人々のために仏の寿命は永遠であると説き、また久しい時を経(へ)てようやく仏を拝見した者たちには、仏には非常に値い(会い)難いものであると説くのです。

私の智恵の力とは、このような(自由自在な)ものです。仏の智恵の光は無量の世界を照らし、

その智恵の寿命は無数劫にわたるのです。これらはみな、長い間 善業(ぜんごう/菩薩道)を修行して得たものです。あなたたち、智恵のある者は、このことを決して疑ってはなりません。(もし、疑いが生じたならば、)

その疑いを永久に断じ尽くしてしまいなさい。仏の言葉は、全て真実で虚(うそ)はないのです。(たとえば『良医病子のたとえ』で述べたように) 医(くすし)が善い方便で、毒薬を飲んで本心を失っている子供たちを救うために、

実際には生きているのに死んだと言って薬を飲ませたのを、あえてウソつきだと言って非難する者がないのと同様に、私も世の中の父であり、多くの苦しみや患(わずら)いを (さまざまな方法で) 救う者なのです。

凡夫は意識が転倒している(本心=正しい心を失っている)ため、私は実際にはこの世にいるのですが、あえて入滅する(死ぬ)と言うのです。

なぜなら、常に私を見ることに慣れてしまうと、心が驕(おご)り欲のおもむくままになり、勝手気ままでしまりが無くなって、五官の欲望の虜(とりこ)になってしまい、悪道に堕ちてしまうからです。

私は、常に仏道修行に励む者と励まない者とを知っていてその相手によってさまざまに工夫しながら、いろいろに法を説いていくのです。

『私は常にこのように念じています。どのようにして、人々を この無上の道に入れて、速やかに仏身を成就させようか、と。』

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