ERIGONOMI NET

Welcome to the yukoku no bushi homepage

           牧口会長は「正法を守った」のか!?

【神社参拝】

 『創価新報』は、"戦時中、牧口氏が特高警察に逮捕された際、宗教の正邪を堂々と論じ、国家神道の誤りを正した。大聖人の仏法を守ったのは学会だ"などと歴史的認識を無視した戯論を述べているが、牧口氏は靖国神社参拝について、次のように述べている。

この問題は将来も起こることと思うから、此の際明確にしておきたい。吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしている。しかし解釈が異なるのである。

神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神社へ参拝するのは「よくぞ国家の為に働いて下さった、ありがとうこざいます」というお礼、感謝の気持ちを現わすのであって、ご利益を下さいという祈願ではない。

もし、「あゝして下さい、こうして下さい」と靖国神社へ祈願する人があれば、それは恩を受けた人に金を借りに行くようなもので、こんな間違った話はない。天照太神に対し奉っても同様で、心から感謝し奉るのである。独り天照太神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝し奉っているのである。(『大善生活実証録』第5回総会記録・牧口氏発言)

牧口氏自身が「吾々が靖国神社へ参拝するのは」と述べているごとく、靖国神社参拝を容認(あるいは実際に参拝)していたことは明らかである。

↑ PAGE TOP

【日蓮正宗との関係】

 また、弾圧時の牧口氏の信仰の中身はどうであったか、逮捕直後の牧口氏に対する特高警察の尋問調書の中で、牧口氏は、 私は正式に僧籍を持つことは嫌いであります。

僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌まった行動しかできません。私の価値創造論をお寺に於て宣伝説教する訳には参りませんので、私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採入れた処に私の価値がある訳で、此に創価教育学会の特異性があるのであります(牧口『尋問調書』)

として、純然たる日蓮正宗の教義にそった修行はしたくない(言い換えれば、日蓮正宗の教義を自分流に曲げていきたい、ということ)、また、日蓮正宗の信仰を価値論と結びつけるところにこそ学会の特異性がある、などと述べているのである。

 この牧口氏の主張には、さすがに未入信の検事すらも不審を感じたらしく、「創価教育学会の信仰理念の依拠するところは、日蓮正宗に相違なきや?」 との質問をしている。

 これに対し牧口氏は、 会員は悉く日蓮正宗の信者として、常在寺、歓喜寮、砂町教会、本行寺において授戒しておりますが、創価教育学会其ものは前に申上げた通り日蓮正宗の信仰に私の価値創造論を採り入れた処の立派な一個の在家的信仰団体であります(牧口『尋問調書』)

などと答え、重ねて、学会は飽迄も日蓮正宗の信仰を私の価値論と結び付ける処に特異性があるのであります(牧口『尋問調書』) と強調しているのである。

 要するに牧口氏は、正宗の信仰を自身の価値論に結び付けるところに、日蓮正宗とは大いに異なる学会の特異性がある、として、学会そのものを一個の独自な在家宗教団体として意義付けていたのである。

 これでは、日蓮正宗は学会を成立させるために利用されていただけであり、もし、この弾圧がなかったならば、行き着くところ、学会は実質的に牧口教となっていたであろう。

↑ PAGE TOP

【国家諌暁の目的】

 また、当時の牧口氏は「国家諌暁」を口にしていたのだが、これは、「戦争反対」を目的としていたのではなく、日蓮正宗を利用して、戦争に勝利したがっただけである。戸田氏著『人間革命』中、牧口氏の言動に明らかである。

国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ。(戸田氏著『人間革命』S40発行・戸田城聖全集収録版)

日本は危ない!国家諌暁をしなければ、日本は惨憺たる敗戦を招く!(戸田氏著『人間革命』単行本版)

日蓮正宗の潰れることを恐れて、なにになる!仏法の力によって、日本を栄えさせてこそ、大聖人はお喜びになるのではないか!総本山の安泰のみ願うのは、弟子の道ではない!(同前)

大聖人の御意思をそのまま実行しようというのに、なんの障りがありましょう!万一、日蓮正宗が潰れたとしても、仏法の力によって国家が立ち上れば、大聖人はお喜びになりましょう!仏法は観念の遊戯ではない!国を救い、人を救うものです!救わなければならない時に、腕を拱いていて救わないのは、仏智に背(そむ)くものではないか!(同前)等々。

 牧口氏は、「国家諌暁」をもって、敗戦に向かっていた戦争に勝利しようと考えていたのであり、現在の学会が言うような「反戦」という思想が当時の学会になかったことは明らかである。

 牧口氏にとって、日蓮正宗という大聖人の仏法は戦争勝利の手段でしかなく、でなければ、「日蓮正宗の潰れることを恐れて、なにになる」との言葉は出てくるわけがない。

 そして、この言こそ、宗祖御遺誡への違背である。なぜならば、 仏宝・法宝は必ず僧によりて住す。譬へば薪なければ火無く、大地無ければ草木生ずべからず。仏法有りといへども僧有りて習ひ伝へずんば、正法・像法二千年過ぎて末法へも伝はるべからず(御書P268)

と仰せのごとく、仏宝・法宝は僧(なかんずく唯授一人血脈付法の御法主上人)によって伝えられるのであり、また、この御金言どおり、7百年間、戒壇の大御本尊を護り、今日の我々にまで伝えてくださったのである。

 したがって、僧たる宗門なくしては、仏宝・法宝も滅尽することになる。

 その重要な役割を担う日蓮正宗をさして、「潰れることを恐れて、なにになる」というよう言動は、まさに仏法破壊の魔の所業であり、大聖人の御金言への大違背、と言わずして何と言おうか。

以上のように、今日の池田創価学会が、長い間、日蓮正宗との二重形態をとりつつ、あくまでも日蓮正宗とは異質の在家教団(池田教)を志向してきた原体質、それは、すでに初代会長・牧口氏の行き方の中に萌芽していたのである。


↑ PAGE TOP

牧口常三郎関連年表

<明治4年>

・6月6日 新潟県柏崎市にて渡辺長松・イネの長男として出生。のちに親戚の牧口善太夫の養子となる。(『慧妙』H24.2.1)

明治26年 小学校の教師となり、名を常三郎と改名する。(『慧妙』H24.2.1)

明治35年 地理学者の志賀重昂に師事し薫陶(くんとう)を受ける。志賀は国粋主義者としても知られるが、その影響もあってか牧口氏は、南朝天皇を正統として新たな皇道を教育せんとする大日本皇道立教会に参加した、といわれている。(『慧妙』H24.2.1)

明治36年 『人生地理学』を発刊

同書で牧口は、日本人の島国根性を痛烈に批判。日露戦争を目前にした国威高揚の時代にあって、「15億万の一世界民たることを自覚する」と、世界市民を志向していました。そして、世界は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」の時代から「人道的競争」の時代へと移らねばならないと訴えました。(<SOKAnet>WS051127) ----------------------- しかし、大正時代に入ると、天皇中心の国家観を持つようになり、戦争翼賛発言が目立つようになる。

大正1年
わが国においては国および国の首長たる天皇は、まったく同心一体と申すべきで、君に忠を尽くすのはすなわち国を愛する所以であるということを十分子供に了解させておかなければなりません(牧口常三郎「教授の統合中心としての郷土科研究」T1/『フォーラム21』H14.3.15) この国家観は入信後も変わらなかったようである。

大正3年頃 大日本皇道立教会(南朝を正統として両統の融和を計ることを目的として大正3年に設立された団体)で活動(芳野朝廷研究会)

↑ PAGE TOP

大正5年 『地理教授の方法及内容の研究』を著す

若し日本をして、英国や独逸或は丁抹(デンマーク)和蘭等の如く、近隣に直接に強圧力を以て居る強国があつたならば、平常大なる力を其の方面に向けて防御に努めなければならぬし、若し又我国が周囲に斯(かか)る恐るべき強敵がなくして、却て日本を恐れる処の弱い国家があるならば、又其れ相応に力を用ひなければならぬ(「地理教授の方法及内容の研究」『牧口常三郎全集』第4巻273頁/『慧妙』H17.11.1)

大正5年頃 国柱会創始者の田中智学の講演会に何度も出席し聴講していた。

 大正13年に発行された田中智学の三男である里見岸雄著『法華経の研究』には、「日蓮上人においては、本尊は…価値創造である」(P101)とあるが、牧口氏がこの書籍を手にした可能性は高く、また「創価」の名の由来となったとも考えられる。(『慧妙』H24.2.1)

昭和3年 ・6月 東京・常在寺所属の信徒で、後に直達講の講頭となる三谷素啓氏の折伏によって、57歳で日蓮正宗に入信。(『慧妙』H24.2.1)

・秋 後の戸田城聖2代会長も、三谷氏の折伏で入信(『慧妙』H18.3.1)

(牧口氏入信の動機について)貧困と、子供達を次々に病没させたことにあるのだろう(柳田国男著『牧口君入信の動機』/『慧妙』H18.3.1)

↑ PAGE TOP

昭和5年・2月18日 「創価教育学会」を設立。(『慧妙』H24.2.1)

・11月18日 『創価教育学体系』第1巻を発刊する。のちに11月18日が学会創立の日とされるが、これはこじつけで、実際には2月18日である。(『慧妙』H24.2.1)

昭和6年・ 創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/『慧妙』H17.11.1)

・3月 『創価教育学大系』第2巻を発刊して、この中で、以前から構想を暖めていた『価値論』を発表

百年前及び其後の学者共が、望んで手を着けない『価値論』を私が著はし、而かも上は法華経の信仰に結びつけ、下、数千人に実証したのを見て自分ながら驚いて居る、これ故三障四魔が紛起するのは当然で経文通りです(牧口常三郎『獄中書簡』/『慧妙』H18.3.1)

 すなわち、牧口氏にとっての『価値論』とは、あたかも釈尊入滅後の智者達が、知ってはいても説き弘めようとしなかった文底下種妙法のような、哲学の最高峰にあたる"教"であり、これを"行"ずる実践形態として法華経の信仰を結び付けることにより、万人の生活上に『価値論』で説く価値(大善生活)が"証"される、それほどの『価値論』を説き顕わしたのだから、三障四魔が紛然と競い起こるのは当然、というのです。

 これでは、日蓮正宗の信仰は『価値論』のために利用されているようなもので、全くの本末顛倒という他ありません。また、この牧口氏の論法では、行き着くところ、『価値論』こそが衆生済度の教であることになりますから、さしずめ、それを説いた牧口氏の立場は"教主"であり"末法救済の大導師"であるということになってしまいます

(事実、かの52年路線の時には、池田大作が牧口氏を「先師」「大導師」と呼称して本仏大聖人に匹敵させ、大問題となりました)。  結局、この『価値論』と仏法との混同が牧口氏の信仰を歪め、それが後の創価学会異流義化の温床になった、といえるでありましょう。(『慧妙』H18.3.1)

 さて、こうした異質な思想をもつ牧口氏は、氏の教化親であり直達講の講頭であった三谷素啓氏と相容れなくなり、三谷氏との間で何回か激論を交わした末、牧口氏は三谷氏と絶交することとなります。

 これにより、牧口氏はそれまでの同志達と袂(たもと)を分かって、東京中野・歓喜寮(後の昭倫寺)へ参詣し始め、以後、歓喜寮(※住職は堀米泰栄尊師=後の第65世日淳上人)を事実上の所属寺院とするようになりました。(『慧妙』H18.3.1)

↑ PAGE TOP

昭和12年・夏 創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)

 昭和12年の夏、創価教育学会発会式(会長=牧口氏、理事長=戸田氏)を境として、堀米尊師に反抗するようになったのである。

 その原因は、当時の僧侶・信徒の証言によると、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を堀米尊師に申し出たところ、堀米尊師がこれに危惧(きぐ)を感じて許されなかったため、やむなく牧口氏は、教育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が師に対する反抗の原因となった、といわれている。

 実際、『創価学会年表』によれば、これまで歓喜寮で開いていた会合を、この時期から開催しなくなっている。  この一件から推するに、創価教育学会の発会を巡る堀米尊師との確執は、そうとう根深かったと考えられる。(『慧妙』H24.3.1)

昭和16年 ・11月 北九州に牧口が指導に出かけた時、会場には特高刑事が臨検し、神社問題が質問された。その時は牧口の指導によってうまく解決(『牧口常三郎全集』第10巻362頁)

昭和17年 ・1月 警視庁当局に対し「創価教育学会々中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に謂ふ曼陀羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払いと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚だしきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等縷々投書せる者あり(「特高月報」昭和18年7月分『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

・5月 軍部の圧力により「価値創造」は第9号をもって廃刊(『牧口常三郎全集』第10巻79頁)

・5月17日 創価教育学会第4回総会

・11月 創価教育学会第5回総会

・11月16日 学会幹部十数名で堀米尊師を取り囲んで行なった、学会の指導方針を巡る押し問答(『慧妙』H24.3.1)

 こうして、堀米尊師との関係が悪化したことから、牧口氏は会員が所属寺院の歓喜寮に近づくことを禁止するようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対しては、烈火のごとく叱(しか)りつけた。 (『慧妙』H24.3.1)

昭和18年 ・牧口氏と堀米尊師は完全に決裂する。 牧口氏は所属寺院の歓喜寮主管堀米泰栄師と議論し、「もう貴僧の指導は受けない」と席を蹴(け)って退去し、本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は茲で日蓮正宗と縁が切れ、後に戸田氏が宗門に帰参してからも、学会は寺院を離れた独自の路線をとることになった(「直達講」副講頭の竹尾清澄氏著『畑毛日記』/『慧妙』H24.3.1)

↑ PAGE TOP

日蓮正宗とは断絶に近い状態に陥っていたのである。

 創価教育学会結成から13年、発足してからわずか6年足らずにして、信仰上、日蓮正宗とは断絶に近い状態に陥っていたのである。  だが、堀米尊師の側では、このような牧口氏率いる創価教育学会に対しても再起の道を残しておられ、その気があれば元の所属寺院である常在寺へ戻れるように手配をされていた。

・4月 学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕

・5月  牧口は、天照皇太神宮の大麻(神札)などを取り払い焼却することが神社等に対する不敬罪にあたるとして、警視庁と東京・中野警察署に出頭を命じられ取調べを受けた(『牧口常三郎全集』第10巻370頁)

・6月  東京・中野の一学会員が、子供を亡くして悲しみの底にあった近所の家に行き、頭から「罰だ」と決め付けたため、怒った相手から訴えられる(※信仰に関わる最初の逮捕=陣野忠夫、有村勝次)(『慧妙』H6?)

・6月初旬 本山での神札指導  学会の幹部が総本山に呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした(『富士宗学要集』第9巻431頁)

・7月6日 牧口、逮捕  牧口常三郎外5名を検挙し取り調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外4名を追検挙し引き続き取り調べ中なり。(「特高月報」昭和18年7月分/『牧口常三郎全集』第10巻371頁)

昭和19年 ・9月6日  堀米先生に、去年堀米先生を「そしった」罰をつくづく懺悔しておる、と話して下さい。「法の師をそしり」し罪を懺悔しつつ「永劫の過去を現身に見る」と言っております、と(戸田城聖『獄中書簡』S19.9.6妻あて/『慧妙』H18.3.1) 牧口会長による日淳上人誹謗を懺悔


昭和20年 ・7月5日  足を引きずりながら歓喜寮を訪ね、日淳上人に対して「申し訳ありませんでした。2年間、牢で勉強して、自分の間違っていたことがわかりました」といって平身低頭、深くお詫び申し上げ、さらに「これからは何もかも、お任せいたしますので、よろしく頼みます」(戸田城聖S20.7.5=出獄の2日後/法照寺・石井栄純尊師が日淳上人夫人より伺った事実/『慧妙』H13.9.1)


↑ PAGE TOP