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二箇の相承紛失の顛末(てんまつ)

妙教 2004年1月(第135号)
 大石寺と北山本門寺の歴史・第十四話

二箇の相承紛失の顛末(てんまつ)
 永禄五(一五六二)年、上行院日春の仲介により、重須本門寺と西山本門寺の和融(わゆう)が成りましたが、この状態は長くは続かず、これよりおよそ二十年後の天正(てんしょう)九(一五八一)年には重須重宝強奪(ごうだつ)という歴史的な事件が起きて、両山の関係は一挙に対立の時代へと進みます。

 しかもこの事件の首謀者(しゅぼうしゃ)が、重須・西山和融の仲介を執(と)った日春であったということでも、この事件の特異性がうかがえます。この時、日春は西山本門寺十三代を嗣(つ)いでいました。そして事件の起きた天正九年は、日蓮大聖人の第三百御遠忌の年に当たっていて、不思議な時の巡り合わせも感じられるのです。

 事件の概要(がいよう)は、「二箇の相承紛失の由来」として、保田日我が手記のようにして残しています(富要九巻二二)。

 本抄冒頭(ぼうとう)には、「二箇の相承紛失の由来を後代存知の為に之を記す」とありますが、日我は重須・西山いずれの関係者でもなく、第三者的な立場と一往は言えます。しかし、もともとが重須日殿の師であり、事件の顛末(てんまつ)は重須の関係者より詳しく聞いていたであろうことは当然で、事件のあらましを知るための、同時代の史料でもあるこの由来記は、一定の信憑性(しんぴょうせい)を持つ内容です。以下に意訳して紹介します。

 「駿河の国(現静岡県)は永い間今川氏の分国であったが、甲斐(かい)の国主武田信玄が永禄十一(一五六八)年十二月に駿府(すんぷ)に討ち入ってから、駿河一国が信玄・勝頼二代にわたり、十五年間支配されることになった。その十四年目に当たる天正九(一五八一)年三月、西山日春という大悪僧が起こした事件である。

 日春は年来様々な邪義を構えて重須本門寺に干渉していたが、思うようにいかなかった。そこで、甲州に有徳の檀那(信徒)があったので、この者を通じて巧言令色賄賂(こうげんれいしょくわいろ)を先として国主に取り入り奉行に訴え、北山本門寺の重宝、とりわけ二箇の相承を奪取(だっしゅ)する謀(はかりごと)を企(くわだ)てた。国主勝頼側もこれを受け入れたのである。

 そこで百人ばかりの人数を日春に指し添え、一団を北山本門寺に向けた。日春は門前で待ち、他の俗衆数多(あまた)を中に入らせ、『甲州武田殿の使いである。身延山の重宝本尊がこの度失われたというので、分国中の諸寺を調べているが、当寺の御大事箱を直接拝見したい』と呼ばわった。

 時の住持日殿は、『当山には全く左様なものはない』と答えたものの、使者は簡単には引き下がらない。『是非とも詳しく調べる必要がある』とさらに威圧すれば、日殿は臆病でその場の工夫も思いつかぬ人物である。それではとおびえながら座を起(た)ち、御大事箱を開けて、中の重宝一つひとつを見せていった。すると使者は『この箱は急いで蓋(ふた)を閉め封をせよ。こちらの箱も封をせよ』と命じた。驚いてどうしてかと問う日殿に、使者は『西山日春の訴えがあり、御奉行様が詳しく調べた上で是非の判決がされるであろう。今はすぐに甲府へ運ばなくてはならぬ』と答えるや、すぐに押し取り持ち去ってしまった。その間、住職も北山衆徒も力及ばず、なるように任せざるを得なかった。

 こうして甲府へ運ばれた御大事箱は、領主の館にある毘沙門堂(びしゃもんどう)と呼ばれる持仏堂に納められた。翌年三月十一日、織田信長が甲州に討ち入って、勝頼父子をはじめ武田一族宿老眷属(けんぞく)は悉(ことごと)く滅亡し、武田冠者(かじゃ)義清以来五百年続いた国は跡形も無く亡んでしまった。悪人の訴えによって悪行を極めたゆえに蒙(こうむ)った現罰である。ある経に、『仏教を破れば亦孝子無く六親和せず云々』と説かれる如くに、堕地獄は疑い無い」  日我はこのように記した後、末尾に、  「其日(そのひ)の乱入に彼の二箇の御相承並に大聖開山御筆の漫荼羅三四十幅濫妨(らんぼう)に取られたるか、何所(いずこ)に御座候とも誰人の所持なりとも大聖開山の御血脈相承富士門家の明鏡たるべし後世此旨(このむね)を存ずべき者なり、仍(よつ)て之(これ)を記す日長、日正、日堤、日侃(にちかん)、日我」(富要九巻二二) と結んでいます。

 日我にしてみれば、侘(わ)びをいれてきたとはいえ、自分に背いて重須貫主に就いた兵部卿(ひょうぶきょう)日義こと日殿に降りかかった事件であったゆえに、日殿を責める気持ちも多分にあったでしょう。しかしそれより、西山日春の謀(はかりごと)から二箇の相承書が失われるという結果を招いた事態の、日興門流全体にかかわる不祥事の張本人として、日春を「大悪僧」と非難する気持ちの方が勝れて、この記録を残したことがうかがえます。

 さて、保田には日我の残した「紛失の由来」とは別に、「妙本寺古記」(富要九巻二四)が残されていますが、こちらは同時代ではなく、やや遅れて書かれた史料のようです。「一、重須と西山と御大事等本門寺諍(あらそ)ひの事」との文から始まる部分が『富士宗学要集』に納められ、日我の記からは知られない内容も含まれています。

 この文書では、北山に押し寄せたのは増山権右衛門(ますやまごんうえもん)(甲斐武田氏家臣)と西山衆とあり、御尊形(ごそんぎょう)(御影像の意か)を荒縄にくくりつけ、直接西山に持ち去ろうとしたものの、途中で河東代官鷹野因幡守(たかのいなばのかみ)、興国寺城代曽祢下野守(そねしもつけのかみ)等の妨げがあり、その結果として富士門徒の手から離れて甲州に持ち去られたとしています。

 同記にはその後の日殿の動きも記され、この部分が日我の記に見られない内容です。すなわち重須日殿が(天正九年)三月上旬より十月中旬まで甲府に滞在、武田家の近習小路中河与三兵衛(こうじなかがわよさべえ)宅に宿して、重宝の返還を求めていたが徒労に終わり、翌年二月五日、日殿が他界するに到ったのは是非も無い次第である(後述するように、日殿は責任を負って、断食の上自ら命を絶ったのである)。しかし同月十八日に兵乱が起こり、織田・徳川軍等が甲斐を責めて勝頼の武田氏は三月に滅亡、西山に荷担(かたん)した大竜寺・小山田備中守(おやまだびっちゅうのかみ)も滅亡、「その時御大事紛失せり」とあります。

 同記には続いて、甲州商人岡田宇賀右衛門(おかだうがえもん)という者が、戦乱の中に御大事の過半を警固して駿河に運び出していたので、後に、御大事箱が重須・西山のどちらに帰属するかで問題となった。すなわち北山の住持日健及び檀那井出甚助(甚之助の誤りか)等と、西山日春との間で駿府城家康の前で対決、家康は公平な立場から、往古より三百年来重須で散逸(さんいつ)無く護ってきた重宝であれば、重須に返すべきであると裁断したので、西山日春には面目無い結果となった。日春は西山から擯出(ひんずい)すべき重罪である。八通の遺書と二箇の相承書はいまだに発見されてない。興門廃失の悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)は彼の日春に相違ないと結んでいます。

 以上二通の文書が、天正九年の事件のあらましを記した保田側の記録です(別に「久遠寺の古状」<富要九巻二四>があるが、事実関係は上の二書と変わりない)。これに北山の記録等を合わせることで、さらに事件の詳細は明らかになるはずです。すなわち重須には、日殿等が作った重宝返還を訴える申状の案文が三通伝えられ(富要九巻一六)、これらは日殿の甲府滞在期間中、武田氏奉行への訴えの為に作られた写しと思われます(三通すべてが奉行に上呈されたかは不明)。

 三通の日付を見れば、事件直後の天正九年三月二十八日、次に同六月十三日で、訴える目的は重宝返還の件で変わりはないものの、重須を退出した日代の非を強調したり、奪われた本尊類と日妙との関係を強調するなど、内容を変えながら訴えようとした苦心もみられます。

 三通から知られる内容として、西山日春の虚言を受けた甲州奉行は、増山権右衛門と興国寺奉行衆を重須に遣わしてきたこと、そして彼らは御朱印(国主の印判)を持って来たので、重須としては是非に及ばず重宝を渡さざるを得なかったという事実が先ず挙げられています。

 次いで、そもそもこの度重須から持ち去られた重宝類は、かつて重須より擯出(ひんずい)された日代が、日興上人より譲られていたものであるから、西山に移されるのが当然であるという、西山側の主張にそってなされた事件であったことが判ります。日代頻出は遙(はる)か二五O年前のことですが、それでも今さらながらに蒸し返される両山対立の根深さがうかがえます。

 これに対して重須側では、日興上人が重須寺を日代に譲ったということは、西山八通の遺状にも書かれてないし、二箇の相承書なども、日代に授与されたものではないから、この度の重宝運び出しは不当であると訴えています。

 さらに、持ち去られた御本尊類については、日興上人より日妙(日代擯出後重須寺の主職に就いた)に対して、本門寺が相伝されたことを証する宗祖御本尊が含まれていることや、また日妙への唯授一人の付嘱、さらに日妙の三堂本尊守護を命じたことを証する本尊が含まれていることを挙げて、早く返して欲しいとの旨が述べられています。

 史実が明かな今日より見れば、日妙については、日興上人より付嘱を受けるほどの立場に当時なかったのは明白で、門流の事情を知らない奉行に対して、重須が出任(でまか)せに盛り込んだ内容であることは判ります。ともあれ重須日殿は、それほど必死に訴えていったのです。

 重須の所伝では、日殿その外七名が、天正九年三月二十七日より甲府に詰めて返還を訴えたがうまくいかず、次いで六月十三日より極月(ごくげつ)(十二月)に到るまでさらなる訴訟に及んだものの効果なく、むしろ旅宿を破却されるなどの迫害を受け、やむなく帰山せざるを得なっかたというのです。

*この史料を「妙本寺の古記」と比べると、甲府滞在期間などにやや相違がある。  日殿は翌天正十年正月朔日(ついたち)より生御影の宝前に閉じこもり、重宝還住の祈願をしつつ断食し、ついに二月六日に憤死(ふんし)したと伝えられています(『本宗史綱』三九六に「重須文書」を出典に記している)。

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『二箇相承』の行方は?

 重須日殿憤死の後間もなく、武田一門は甲州に押し寄せた織田・徳川連合軍に天目山で包囲され、天正十年三月十一日に滅亡しました。この戦乱の中に、甲府に運ばれた重須重宝も行方不明となり、存在さえ危(あや)ぶまれる事態となったのですが、重須も西山も、これの探索追跡に血眼(ちまなこ)で当たったことは想像に難くありません。

 そして重宝の一部は間もなく甲府で見つかったようで、家康の重臣本多作左衛門(さくざえもん)重次(鬼作左(おにさくざ)の異名がある)の差配するところとなりました。これの獲得をめぐって、重須と西山は必死の働き掛けを行ったことが、「日春甲府惣旦方宛(そうだんほうあて)書状」(天正十年十月十五日西山文書・蓮華第三号・以下「日春状」と略称)及び「本多作左衛門状」(天正十年十月二十八日・富要八巻一七四・以下「本作状」と略称)との二文書より知られます。

 「日春状」では、日春が首尾よく作左衛門に働きかけ、五百両もの高額な買い取り金を示して、十月七日に重宝を獲得したことを、甲府にいる有力な惣檀方(そうだんほう)(檀徒の中心者)に対して知らせた内容です。続く文面では、重須側でも、西山提示の額以上を出しても重宝を取り戻そうとしていたことに触れ、西山へ渡されることが決まった事に重須は無念がり、御会式の場では喧嘩口論も飛びだしたと聞いたことなどを伝えています。ところがこの度見つかった宝物には、「二箇相承」・「額」・「八通之遺状」の三点の重宝は含まれてなかったので、作左衛門よりはこの三点について、引き続き厳重な探索を続けるとの堅い約束を取り付けたとも述べています。そして西山としては、この三点を得るのが目的であるが、他の文書が出ればそれも一緒に受け取るようにとの作左衛門の意向ゆえに、三点を確実に獲得するためにも、他の文書も受け取るつもりであると述べています。

 この書状で日春が指摘した三点のうち、「二箇相承」は周知のごとくです。「額」とは重須に伝わる「本門寺根源額」のことで、大聖人が遺命された本門寺の戒壇が建立された暁(あかつき)に懸けるために、日興上人に授与された宗祖直筆の額ということですが、実物が今日に伝わらず、真偽を論ずる事さえ不可能です。そして「八通之遺状」については、西山の祖日代が日興上人より付嘱があったことを証する、日興上人直筆といわれる八通の文書のことですが、これも時代写しさえ今日に伝わっていません。以前にも触れたように、八通のほとんどは北山と対峙(たいじ)する西山が、日代の正統を証する目的で、この時代より相当以前に作り出した偽文書と見られています。

 ただ、これほど西山で大事にしてきた「八通之遺状」を、西山歴代を嗣いだ日春が、重須の重宝の中にあると考えていたこと自体、不可解なことです。

 この文書については、重須日殿が甲府の奉行所に申状案文にも「西山八通に置状」と書いているので、明らかに「西山に所蔵されてきた八通の遺状」(真偽はともかくとして)というのが、この一連の文書に対する当時の一般的な認識であったはずですが、日春が二箇の相承書など重須の重宝とともに、手に入れたいと書状に書いたことについて、これをどのように解釈すればよいのでしょう。日春は西山の貫主となったものの、自山にある宝物の内容さえ知らなかったのか、あるいは自山に八通之遺状の原本が無いので、日代が重須に残してきたと思い込み、それをこの機会に手に入れたいと考えたのでしょうか。何れにしても日春に垣間(かいま)見られる態度には、重須との闘争に脳裡を奪われる一方、重大な認識不足を露呈する、一山の貫主らしからぬ姿勢も見えてくるようです。

 さて、日春の書状より十三日ほど遅れて書かれた「本作状」についてですが、本多作左衛門は西山びいきであったようです。西山日春より、黄金五百両を出して重宝を受け取りたいと申し出た件について、作左衛門は「五百両はいらぬ。これらの重宝はすべては新たに西山に寄進するものである」との意向を、日春に伝えた文面です。

 作左衛門のこの申し出に対して、喜んだ日春は請書(うけしょ)を用意しました。その案(下書)が残されています(「日春請文の案」富要八巻一七四)が、この内容には、この時見つかった重宝の数が「日蓮御自筆物数合わせて六拾六」とあり、そのうちに御本尊が八幅含まれていたということです。また作左衛門が気前よくすべてを寄進しようと申し出たことについて、これを深謝する意も述べられています。

*宗祖御自筆の書六十六点とは、実際は宗祖御真筆だけではなく、宝物全体を合わせて六十六点あったということであろう。

 このような経過をたどって、一度は日春の思い通りに事は運び、重宝六十六点は天正十年十月七日、西山に確かに寄進されたのです。ところが、肝心の作左衛門の主君徳川家康は、これより数ヶ月さかのぼる同年二月、甲州攻めの途上、重須近くの小野沢村に宿営、重須日出は挨拶に出向き、家康の庇護(ひご)を受けるほどの良好な関係を結んでいました。

 重須では十代日殿憤死後、前貫主であった老僧日出が、やむなく再び貫主に就いていました。その日出が家康の宿営を訪れた時の様子が、重須に伝えられています(日出記)。

 家康は日出に対して、法名と年齢を尋ねました。そして、日出という旭日を意味する法名と、米寿(べいじゅ)に達するという年齢を聞き、征討軍出立に際してこれは吉兆(きっちょう)であると、日出に会ったことを喜びました。さらに大久保新十郎忠隣(ただちか)を遣わし、武運長久の祈祷を願い、これに応えて日出は、宗祖漫荼羅本尊(建治二年二月)を授けたのです。

 その後、家康一行は武田を滅ぼして帰る道すがら、五月十日に再び当地を訪れ、日出に会って漫荼羅を返還。漫荼羅御本尊の法威(ほうい)により無事帰還できたことを謝した上で、褒美(ほうび)として朱印状の交付と、本門寺堀後に称される用水路の開削(かいさく)を約束しました。

 日出が授けた宗祖漫荼羅御本尊については、戦場で家康に向けられた銃弾が、替わりに漫荼羅の花押部分に当たり、家康の一命が助けられたということから、「鉄砲漫荼羅」の呼び名で本門寺の寺宝とされてきました。本門寺堀については、命を受けた井出甚之助正次によってただちに工が起こされ、間もなく完成を見たようです(富要八巻一五九)。

 このような重須側の動きは、本多作左衛門が贔屓(ひいき)にした西山側の働きかけを凌(しの)ぐものでした。すなわち重須日出が家康と昵懇(じっこん)になったことで、甲府に運ばれたまま行方不明になった重宝の探索と返還について、日出が家康に懇願(こんがん)したことは間違いありません。

 重須の寺伝によれば、ひとたび西山に納められた重宝は、それよりわずか数ヶ月後の天正十一(一五八三)年二月二十六日、家康の命によって取り上げられ、本多弥八郎の手で重須に返還されています。その時の重宝目録として、  宗祖御真筆漫荼羅大小十一幅、日興上人御真筆漫荼羅大小三十九幅、日興上人御真筆聖教、日興上人御真筆日澄師への遺状一通、日代筆五人立義抄一巻、日源筆安国論二巻、大聖人御珠数一連、日興上人御真筆開目抄要文三巻、日興上人御真筆内外要文二巻」(富要九巻二一)  以上のように記録されています。ここにはほぼ六十点以上を数えることができ、日春が用意した請書(先出)の六十六点と数の上ではほぼ合致するようです。

もちろん二箇の相承書はこの中に見られません。同書に続いて、  「右は東照神宮様より本田((ママ))弥八郎殿、西山を闕所(けっしょ)(没収の意)に仰せ付けられ候て御取戻し下され候、本田弥八郎殿、西山より当山へ御持参誠に以て東照神君様の御政徳を以て当山永く仏法護持の霊地に罷(まか)り成り候、後生忘失有るべからざる事、天正十一年未(ひつじ)二月二十六日」 と、重宝が西山より重須に返されてきた事を、喜びを交えて記しています。しかし文中「東照神宮」とは家康没後の呼び名で、史料としては後世に成ったものということが判りますが、重宝の内容と、それらが重須におさめられた経緯はほぼうかがえます。ここにある本田弥八郎とは本多正信(まさのぶ)のことで、家康の側近ですが作左衛門重次とは別人です。

 同書には続いて、「平岡岡右衛門殿より御帰(かえ)し成され候覚」(富要九巻二二)として、宗祖御真筆の法華経や『貞観政要(じょうがんせいよう)』など数点が挙げられていますが、これらは先に列挙した重宝とは別に発見されたものだったようで、それが重須に納められた記録と思われます。

 先に挙げた「妙本寺古記」には、甲州商人岡田宇賀右衛門が戦火の中、御大事箱を駿河に持ち出したことが記されていましたが、「平岡岡右衛門」と「妙本寺古記」の「岡田宇賀右衛門」とはやや似た名前でもあり、どちらかの史料の誤記による違いで、実際は同一人物と思われます。

 そして、「妙本寺古記」に見られる、駿府城における西山日春と重須日健(日出を嗣いで重須十一代貫首となる)等の対決について、この時の家康の裁定によって、天正十一(一五八三)年二月二十六日、重宝は重須へ返還され、二箇の相承書はなお行方不明のままでしたが、事件は一往の結末に至ったのです。

      妙教 2004年2月(第136号)
 大石寺と北山本門寺の歴史・第十五話

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二箇の相承書の意義

 二箇の相承書とは、『日蓮一期弘法付嘱書(いちごぐほうふぞくしょ)』と『身延山付嘱書』の二通の付嘱書のことです。日蓮大聖人が御入滅を間際にした時期に、御生涯をかけて開示・弘通された三大秘法の仏法の一切を、一門の棟梁(とうりょう)と定めた日興上人に付嘱され、広宣流布に向けての前進を遺命されたものです。

 以下にこの二書を掲げます。
 『日蓮一期弘法付嘱書』
 日蓮一期(いちご)の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此(こ)の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂(い)ふは是なり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり。

 弘安五年壬午(みずのえうま)九月 日          日蓮花押
                         血脈の次第 日蓮日興

   

『身延山付嘱書』

 釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当(べっとう)たるべきなり。背(そむ)く在家出家共の輩(やから)は非法の衆たるべきなり。

  弘安五年壬午十月十三日
                武州池上
                     日蓮花押

 初めに挙げた『一期弘法付嘱書』は、日蓮大聖人が御入滅を前にした時期、弘安五年九月八日に身延山を発(た)たれますが、その前後にしたためられたものとされています。

 「日蓮一期の弘法」とは、御生涯をかけて弘通された三大秘法の仏法、すなわち極(きわ)まるところ本門戒壇の大御本尊のことで、さらに大御本尊に具わる化儀化法の一切が日興上人に付嘱されたことを明らかにされています。その日興上人のお立場を「本門弘通の大導師」と定められ、御入滅後の一門の棟梁として、三大秘法の弘通を命じられています。

 さらに、この弘通を進めていく中で、国主が帰依(きえ)をして広宣流布の様相が現われたならば、富士山に本門寺の戒壇を建立せよとの御遺命(ゆいめい)を示され、それまでは折伏弘通をしつつ時を待つべきである。「事の戒法」、すなわち本因下種仏法における戒法(受持即持戒を旨とする)とは、富士山に本門寺の戒壇を建立することであり、我が門弟・僧俗はこの状を守らなくてはならないと結ばれています。

 日付の後に、唯授一人の血脈の次第として、大聖人より日興上人へ付嘱されたことを改めて示されています。

 御当代日顕上人は、『一期弘法付嘱書』の付嘱を、法華経における神力品(じんりきほん)別付嘱の意義に準(なぞら)え、また次に掲げた『身延山付嘱書』にある「釈尊五十年の説法」の付嘱は、嘱累品(ぞくるいほん)総付嘱の意義に準えて、説示されています。

*「地涌の菩薩は神力品において結要付嘱を受け、さらに嘱累品において釈尊一代仏教のすべてを付嘱され、その内容をお持ちでありますから、その結要付嘱の意味においては『日蓮一期の弘法』という意味が示され、さらにまた嘱累品の釈尊仏法全体の上からは『釈尊五十年の説法』をお持ちなのであり、その上に『日興に之を付嘱す」と仰せになっておると拝せられる」(『大日蓮』平成一二・七P49)

 次に『身延山付嘱書』については、御入滅の日である弘安五年十月十三日、武州池上右衛門大夫邸において、重ねて日興上人への付嘱を明らかにされたものです。「釈尊五十年の説法」を日興上人に相承される文に続き、日興上人を身延山久遠寺の別当に任じられ、一門の在家・出家において日興上人へ信順なき者は非法の衆であると、誡(いまし)められています。

 この付嘱書について、「釈尊五十年の説法」すなわち釈尊の一代仏教を、日興上人に相承するとある箇所について、古来疑義を出す者がありますが、日顕上人は上に触れたように、「釈尊五十年の説法」とは、釈尊仏法の総付嘱の意味に同ずると示されています。さらには、日蓮大聖人の一期の弘法により、釈尊の一代仏教はその中に開会(かいえ)され、三大秘法を弘通する上の流通分(るつうぶん)の用(はたら)きをなす旨も、教示されています。

*「大聖人様が御出現になって、『内証の寿量品』の本義たる久遠元初証得の妙法蓮華経を弘宣あそばされると、一切の序分(釈尊の一代仏教を指す)はことごとくそこに入っておるわけですから、今度は序分の一切がそっくり、この妙法を弘通するための流通分となるのです。したがって、序分の一切は妙法蓮華経の体の内に納まって開会されたのであります。

 要するに、釈尊一代五十年の説法は、この文底下種の妙法である三大秘法を広宣流布するための分々の助けとして流通を成ずるのであります」(『大日蓮』平成一三・三P64。括弧内筆者)

 すなわち、『一期弘法付嘱書』と『身延山付嘱書』の両抄は、二書がそろってこそ総別の付嘱が調(ととの)い、正しい意義が顕われるということです。

 封建時代に家督(かとく)を相続するのに、惣領(そうりょう)だけではなく庶子(しょし)にまで分割(ぶんかつ)して相続した者は「田分(たわ)け者」と言われ、愚(おろ)か者の代名詞となりました。所領が一族の命綱(いのちづな)であった時代に、分割相続をすることは、一家・一族の力を衰(おとろ)えさせることになるので批判されたのです。

 仏法の付嘱も同様であり、釈尊は迦葉(かしょう)に付し、天台は章安(しょうあん)へ、伝教は義真(ぎしん)へと、何れもただ一人に付嘱されたのであり、日蓮大聖人が六老僧に分割乃至平等に付嘱するなどということは有り得ないことです。

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二箇の相承書伝承の跡

 宗門史上、現在は行方不明とされている二箇の相承書ですが、古くからの文献には様々な箇所に引用され、また写本類も伝えられて、その存在をうかがい知ることができます。これについて、宗内ではいくつかの研究論文も発表されており、それらの成果をふまえた上で、二箇相承書の伝承を、ある程度確実とされる文献に絞(しぼ)った上で訪ねてみることにします。

 まず二箇の相承書に触れた文献として古いものを挙げれば、重須二代学頭の三位日順師が書いた『日順阿闍梨血脈』(延元元年・一三三六・聖滅五五年後)と、同じく『摧邪立正抄(さいじゃりっしょうしょう)』(貞和(じょうわ)六年・一三五0・聖滅六九年後)があります。初めの『日順阿闍梨血脈』の方には、  「次に日興上人は是(これ)日蓮聖人の付処(ふしょ)本門所伝の導師也。禀承(ぼんじょう)五人に超え紹継(しょうけい)章安に並ぶ」(富要二巻二二) と見られます。

また『摧邪立正抄』には、  「日興上人に授(さず)くる遺札(いさつ)には白蓮(びゃくれん)阿闍梨と云々」(富要二巻五○) とあります。初めの『血脈』の方だけではすぐに判らなくても、『摧邪抄』を合わせ見れば、両書が二箇の相承書を指していることに気がつきます。ちなみに『摧邪抄』にある「白蓮阿闍梨」とは日興上人の阿闍梨号ですが、宗祖御在世中にこの号を見るのは、二箇の相承書を除けば、御入滅間近の十月八日、六老僧選定の時しかありません(宗祖御遷化記録・新一八六三)。したがって「日興上人に授くる遺札」とは、二箇の相承書を指していることは明らかです。

 次に、大聖人滅後一八七年のことですが、応仁(おうにん)二(一四六八)年十月十三日、京都要法寺の前身である住本寺十代日広(要法寺歴代としては十六代)が、重須寺(後の本門寺)に詣(もう)で、二箇の相承書を謹写している事実があります。この奥書に日広が、  「富士重須本門寺に於いて御正筆を以て書し奉り畢(おわん)ぬ、応仁二年十月十三日」 と書いた後に、日在(要法寺十八代)が、  「私に云く先師日広富士山へ詣(もう)で玉(たま)う時此(か)くの如く直(ただち)に拝書し給う也」 と、自山先師の行蹟であることを明記して伝えています。

 なおこの写本をさらに大遠坊日是(亨保七年寂)が転写したものが、今日まで大石寺に所蔵されています。

 要法寺ではさらに十九代広蔵院日辰が重須を訪れ、弘治(こうじ)二(一五五六)年七月七日、時の住持八代日耀(にちよう)に二箇の相承書を臨写(りんしゃ)せしめたことは、以前にも触れました(現在西山本門寺藏)。臨写とは正本(原本)を横に置いて、行数・字配り・字形に至るまで忠実に模写(もしゃ)することです。ゆえに臨写本は、大聖人が日興上人へ授けられた正本の形態をもっとも正確に伝えていると言えます。そして、日辰はこの臨写本をさらに転写した上で開版頒布(はんぷ)したということで(夏期講習録二巻9)、それが宗内で刊行された『法華経の原理一念三千法門』(小笠原慈聞著・昭和二十五年刊)巻頭に収録されています。

 日亨上人もこの臨写本によって、二箇の相承書御正本(原本)の雰囲気を、いささかなりとも偲(しの)ぶに足りると評されています(興詳伝一五二)。  この臨写本の奥に、日辰は自ら由来を書き添えています。  「我(われ)日誉等と弘治二丙辰(ひのえたつ)年七月五日、駿河国富士郡重須本門寺に至る。同七日己午(つちのとうま)二刻此二ヶ御相承並本門寺額安国論等を拝閲せしめ畢(おわん)ぬ。後証の為住持日耀(にちよう)上人をして之を写さしめ、以て隨身上洛に備える。時に同月廿二日也 弘治三丁巳(ひのとみ)八月朔日(ついたち) 日辰(花押)」(原漢文)  以後、話しを進めていくなかで、この臨写本を仮に「日辰所持本」としておきます。

 これまで、日蓮正宗で編纂(へんさん)されてきた御書全集が数種類ありますが、日亨上人が編纂された従来のもの、現在刊行されている『平成新編御書』、さらに『昭和新定御書』『平成改定御書』の何れについても、二箇の相承書は日辰所持本と大差のない内容であることが判ります。すなわち、成立の由来も明らかな日辰所持本は、かなりの信頼性をもって扱われてきたと言えます。

  二箇の相承書写本の中でも、たとえば日有上人の晩年、尊門より大石寺に帰依した左京日教の著した『類聚翰集私(るいじゅかんしゅうし)』と『六人立義破立抄私記(りゅうぎはりゅうしょうしき)』中に、二箇の相承書が引用され、日付が『身延山付嘱書』を九月十三日とし、『一期弘法抄』は十月十三日と、日辰所持本とほぼ逆転して写されています(これと同様、逆転した日付となっているものに、他門本成寺日現の『五人所破抄斥』がある)。しかし以上の例は正本を見るのが不可能な状況における誤りと思われ、これ等の写本が存在しても、日辰所持本の正確さを揺るがすものではありません。

 また日付について、前項に紹介した日顕上人御教示に基づいても、神力品に準(なぞら)える『一期弘法付嘱書』が先となり、嘱累品に準える『身延山付嘱書』が後に来てこそ、理(り)に称(かな)っていると言えます。

 日辰所持本で一点問題となるのは、『身延山付嘱書』の文中、「身遠山久遠寺別当」とある箇所です。つまり本来なら「身延山久遠寺別当」でなくてはならないということです。

 これについて、大聖人の御正本に「遠」となっていたのか、あるいは日耀が模写(もしゃ)する際に間違えたのか、その他の可能性も考えられますが、模写の際に日辰以外の者が拝見していたという由来書きがあること、さらに日辰は三年後の永禄(えいろく)二(一五五九)年一月十二日にも再度御正本を拝見しているので、模写の誤りというより、御真書そのものが「遠」となっていたと見る方が自然です。

 こう考えるもう一つの裏付けとして、大石寺に所蔵されてきた第十四世日主上人の写本にも、「身遠山」となっていることを考慮しておく必要があります。

 大石寺に蔵されている二箇の相承書として、現在最古の写本は日主上人のものです。同上人が御法主に就(つ)かれていた期間は、天正(てんしょう)元(一五七三)年より慶長(けいちょう)元(一五九六)年の間です。すなわち日主上人は、重須重宝強奪事件(天正九年)の最中に大石寺御法主に就かれていたのであり(重須の事件に大石寺はもちろん無関係)、その御登座期間における相承書筆写について、富士年表では一応「天正年間」としています。問題は、日主上人が果たして二箇の相承書を写されるに当たり、その元本としたのは何(いず)れであったかということです。

 日主上人の頃、大石寺は重須と親交があったようには思われず、日主上人が、日辰のように重須に出向いて二箇の相承書を写されたとは考えにくい状況です。もちろん、二箇の相承書御正本が重須にあったことを前提とした論考です。

 いわゆる、日目上人が晩年おられたのが大石寺であるゆえに、日目上人への付嘱の書である『日興跡条々事(にっこうあとじょうじょうのこと)』御正本が、大石寺に所蔵されてきたのと同様、二箇の相承書の御正本は日興上人が生前ずっと所持され、御遷化を迎えた重須に蔵されてきたと考えるのが自然です。とは言え、大石寺にはそれまで、二箇の相承書の写本が全く伝えられていなかったとは考えられず、日目上人への付嘱を内々に定められていた日興上人であれば、御存生の時代における古写本(現在は伝わらないが)はすでに大石寺日目上人の許(もと)に存し、日主上人はそれをもって写されたのではないかと推考するものです。

 ちなみに日辰所持本と日主上人写本(『諸記録』掲載の写真による)を比べてみると、『一期弘法抄』は字配(くば)りや字形等ほぼ同一で、最後の「日蓮在御判」「血脈次第 日蓮日興」の二箇所に違いが見られるだけですが、『身延山付嘱書』については文字数、字配り、行数までが異なり、それぞれ写した時の元本は別々のものであったことは明らかです。

 しかし、先述した通り『身延山付嘱書』の「身遠山」とある箇所は双方同じであることから、御正本がそのようになっていたという可能性はいっそう高まります。

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紛失後の二箇の相承書

 江戸時代になると、二箇の相承書のことが徳川家関係の文献に登場しています。

 まず、慶長十六(一六一一・聖滅三三0)年十二月十五日、『駿府政治録』『駿国雑志』『古老茶話』によれば、家康の側近として流通経済の確立に尽力したとされる、江戸金座の頭役後藤庄三郎が、二箇の相承書を家康の面前に披露(ひろう)したことが記されています。この時、重須重宝強奪事件よりすでに三十年がたっています。『駿府政治録』によれば、  「今晩富士本門寺校割(こうわり)(引渡しの意)二ヶの相承日蓮筆後藤庄三郎御覧に備う。其の詞(ことば)に云く釈尊五十年の仏法日(白)蓮阿闍梨日興に之を附属す云々」(『諸記録』四巻三二・原漢文。括弧内筆者) とあり、続いてこれを拝した家康が、  「日蓮は爾前経を捨てなかったことはここに分明ではないか。後の末流に至って、僅(わず)かに『四十余年未顕真実』の一語を以て爾前教を棄捐(きえん)(捨てること)すべきと主張するのは、祖師(大聖人)の本意ではない(取意)」 と述べたと言うことです。

 また『駿国雑志』によれば、以上の家康の発言を記した後、慶長十六年十二月十日、仏法相承について家康の下問があり、時の住持日健は眼病のため、役僧養運坊が十五日駿府城に登城、後藤庄三郎が案内して家康と対面、二箇の相承書と本門寺額を進覧したところ、上に挙げた発言が家康より発せられたと、やや詳しく説明しています。

 この折りに、二箇の相承書は幕府の手で筆写され、その写本を林羅山(はやしらざん)(道春)より借りて金地院崇伝(こんちいんすうでん)が日記中(本光国師日記)に記録しており、両相承書とも日辰所持本と全く同じです(「身遠山」を含めて全同。『諸記録』四巻三二)。

 はたして、重須より家康に拝覧せしめた二箇の相承書は御正本か写本か。明記はなくとも、写本であればその旨書かれるはずで、家康並びに幕府側の認識では、御正本と思っていたように記録されています。『徳川実記』の同日の項にも、  「駿州富士郡本門寺の什宝宗祖日蓮の真蹟二幅。後藤庄三郎光次持参して御覧に備ふ」 と、「真蹟」と記しています。そうであれば、家康の指示で重須の重宝(二箇相承を除く)が返還された天正十一(一五八一)年二月二十六日以降、この慶長十六(一六一一)年までの間に、二箇の相承書は発見され、重須に返されたとも考えられますが、そのような記録は宗門内外何れにも残されていません。ただし先の『駿府政治録』に「富士本門寺校割(こうわり)」とあれば、幕府が発見した二箇の相承書は、「校割」つまり重須側に引き渡されていたとの意で取ることは可能です。

 さて、二箇の相承書を家康の台覧(たいらん)に供してから六年後、要法寺二十四代日陽が、元和(げんな)三(一六一七)年四月二十五日、重須において二箇の相承・本門寺額等を拝見、すべて御正筆であることを念記しています(『祖師伝』富要五巻六O)。

 さらに妙観文庫本『興門口決(こうもんぐけつ)』には、扉の部分に、信領坊日體(にったい)(下条妙蓮寺三十九代)が、北山本門寺の御風入(かぜいれ)(虫干(むしぼ)し)の折に二箇の相承書の御真筆を拝見したことを、以下のように書き付けています。  「明治十年六月十三日北山本門寺に而(て)御風入之節御相承御直筆奉拝也 信領坊日體」 *『興門口決』全十巻は、妙蓮寺二十七代日立が、宝暦元<一七五一>年に編した、興門の化儀・化法に関する書。

 こうして二箇の相承書紛失後の行方を追っても、まことに不可解で謎に包まれたとしか言いようのない結論に至ります。しかし、以上のことを整理しつつ考え直すならば、紛失の時に当住日殿が甲州奉行に再三訴え責任をとって断食憤死(だんじきふんし)までしていることを考えれば、保田側の資料にもあるように、重須重宝強奪事件そのものが事実であったことは動かせません。

 では、重須より持ち出された二箇の相承書は、果たして御正本であったのでしょうか。と言うもの、日殿が小泉より横滑(よこすべ)りした貫主であり、重須の重宝について認識が十分ではなく、写本であった可能性が考えられなくもありません。日殿等は武田兵と西山衆徒の強奪に驚き、甲府の奉行に返還を訴えることに熱中し、事件後に正本・写本を確かめる余裕が無かったかもしれず、もしそうであるならば、重須には当初から二箇の相承書は存在していたということになります。

 では、なぜそれほど富士門流にとって重要な文書の存在を、明らかにできないのか。

 考えられることは、身延日蓮宗等五老僧の末流にあって、二箇の相承書が現存することは、自らの門流の正当性を否定するに等しいものです。ゆえに、近代に至って身延と合同した北山本門寺として、たとえ御正本があっても公言できないという事情が考えられます。そのような重須側の姿勢を具体的に示すものとして、昭和五十七年に刊行された『本門寺並直末寺院縁起』には、天正九年の重宝強奪事件について、「日殿申状の案」等を史料として掲載しても、二箇の相承書には触れないようにしています。

 あるいは御真書は重須より持ち出され、武田家滅亡とともに不明となり、その後同地を支配した徳川家の手にわたり、久能山讃明院にある可能性が、宗内で古くから語られてきました。この場合慶長十六年、家康が目にしたのは写本であったということになります。何れにしても、二箇の相承書が晴れて天下に姿を現わす日の来ることを願うばかりです。

ー正宗寺院より転記引用ー

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