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       日蓮本仏論についての一考察 須田晴夫


宮田論文への疑問

2015 年 9 月 5 日、創価大学で開催された日本宗教学会第 74 回学術大会で、同大学教授の宮田幸一氏が「学問的研究と教団の教義 ー創価学会の場合」として口頭発表を行い、それを加筆訂正した論文が宮田氏自身のホームページで公表された。

氏が個人の立場でどのような内容を発表しようと、「表現の自由」「内心の自由」に属することで何の問題もないが、氏は創価学会の教義形成に影 響力を持つ何らかの立場にあると聞いている。

仮に氏がそのような立場にあるということになると、氏の見解は個人的意見にとどまらず、幾分か教団 全体に関わる意味を帯びてくる。そこで筆者は、氏の論文に触れて若干の疑問を感じたので、氏の他の論文を含めて検討し、取り上げられた問題 について議論を深めるための参考資料として本稿を作成することとした。

はじめに、各項目の表題を挙げておく。

(1) 「本門の本尊」があれば日蓮宗各派の信仰にも功徳はあるか
(2) 「功徳と罰」を主張することは誤りか
(3) 近代仏教学との関連
(4) 日蓮本仏論
①日蓮本仏論はカルトの理由となるか
②日蓮自身による日蓮本仏論
③日蓮が末法の教主(本仏)である所以
④日蓮が釈迦仏を宣揚した理由
⑤曼荼羅本尊の相貌に表れる日蓮の真意
⑥天台大師が示す教主交代の思想
⑦仏教の東漸と西還――仏教交代の原理
⑧上行への付嘱の意味――教主交代の思想
⑨真偽未決の御書について
⑩日興門流による日蓮本仏論の継承
(5) 釈迦仏像の礼拝を容認すべきか
(6) 学説が確かな根拠になりうるか
(7) 自分の判断が一切の基準か(1)「本門の本尊」があれば日蓮宗各派の信仰にも功徳はあるか

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まず第一に、2014 年に創価学会が会則を改定した際、学会が日蓮図顕の文字曼荼羅も書写の文字曼荼羅も全て等しく「本門の本尊」である と説明したことに触れ、日蓮真筆の文字曼荼羅が日蓮宗各派の寺院に所蔵されていることから、宮田氏は先の論文で、「『本門の本尊』を信仰の 対象としている日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳があるということを教義的には認めざるをえないことになるのではな いかと私は考える」と述べ、さらに「『本門の本尊』を信仰しても、全く功徳がないという教義を日蓮の御書から導き出すのはかなり困難ではないかと私は思っている」としている。

はたして、そうであろうか。日蓮図顕の真筆本尊も書写の本尊も、いずれも南無妙法蓮華経を具現した「本門の本尊」であるという前提は当然とし ても、しかし、例えば身延山久遠寺や中山法華経寺に安置されている日蓮真筆本尊を、「本門の本尊」であるからといって久遠寺や法華経寺の 信仰をもって拝んで、功徳はあるだろうか。私はないと思う。それを裏づけるのが「生死一大事血脈抄」の「信心の血脈なくんば法華経を持つとも益 無(むやく)なり」(御書 1138 ㌻)の文である。

この文で「法華経」とは経典としての法華経ではなく、文字曼荼羅と解せられる(晩年の日蓮は文字曼荼羅をもって「法華経」と呼んでいる)。こ の文は、血脈とは信心の異名であるという「信心の血脈」論の根拠となる有名な文であるが、この文を素直に読めば、いかに正しい曼荼羅本尊で あっても、拝む側に正しい信心がなければ功徳はありえない、という意味になろう。

それ故に、これまで創価学会ではこの文を引いて「日蓮大聖人、日興上人の御精神に適った正しい信心がなければ血脈はなく、たとえ正しい御本尊を拝しても、功徳が現れることはない。かえって『かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし』〈919 ㌻〉と仰せのように、仏法違背の大罪となる」(「大白蓮華」第 627 号)と教えてきたのである。

この「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」との「種種御振舞御書」の文は、日蓮を崇拝する在り方としても「あしく敬う」場合と「よく(正しく)敬う」場合の相違があることを示している。どのような教義であれ日蓮を崇拝さえすればそれでよいということではない。誤って敬った場合には国が亡ぶほどの悪業になるというのである。

そうなると、曼荼羅本尊を拝みさえすればどのような宗派の信仰をもって礼拝しても応分の功徳があるという宮田氏の見解は、この文と明確に違背 するのではなかろうか。

仏教の根本テーゼである縁起説によるならば、万物はそれ自体のみで存在するものではなく、他者との関係性の網の目の中で存在し、価値を有す る。文字曼荼羅も、それ自体が無条件で、人間が存在しない場所で本尊としての力を持つのではない。

曼荼羅に接する人間との関係性によってその意味と力が異なってくる。日蓮が図顕した曼荼羅本尊は「観心の本尊」すなわち「信心の本尊」であり 、正しい信心をもって拝して初めて本尊としての力用が現れるのである。信心が皆無のところにおいては、たとえ日蓮真筆の文字曼荼羅でも本尊と しては現れず、一種の「掛け軸」に過ぎないことになる。

創価学会は、身延山久遠寺や中山法華経寺など日蓮宗各派の信仰は正しい信心とは認めず、むしろ誤ったものであるとしてきた。それにもかか わらず、宮田氏のように「日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳がある」としたのでは、それらの寺院に参詣することも必 ずしも誤りではないということになり、これまでの学会の指導性の全面的否定になりかねない(当然、大石寺に参詣しても差し支えないことになる )。それでは、これまで創価学会の指導性に従って信仰してきた学会員を裏切ることになるであろう。

ただし、氏は現在の創価学会の方針として、「『本門の本尊』としては平等だからという理由で他教団の所有する本尊を拝んでもよいと容認するわ けではなく」と、他教団の本尊の礼拝を容認していないと認識しているようである。しかし、それでは、他教団の本尊の礼拝は容認しないという学会 の方針と「日蓮宗各派の信仰、ならびに日蓮正宗の信仰にも、応分の功徳がある」という氏の見解とでは矛盾しており、整合性がとれていない。氏 の立場を論理的に貫けば、「他教団の本尊の礼拝を認めないのはむしろ教義的には誤りである」ということになるであろう。

もっとも宮田氏は、真筆ないしは直弟子などの古写本のない御書は日蓮の思想を判断する根拠にはなり得ないという立場をとっているので、真筆 が現存しない「生死一大事血脈抄」も偽書として扱い、一切用いないとするのであろうか。真筆や古写本のない御書を全面的に排除する傾向が 一部の研究者の間に見られるが、後に触れるように、そのような態度は真偽が確定できない御書を全て偽書として切り捨てるもので、行き過ぎであ り、妥当ではない。

創価学会は、これまで血脈観として、正しい信心こそが血脈であるという「信心の血脈」論の立場に立ち、その根拠を「生死一大事血脈抄」に置い てきた。2015 年に発刊された『教学入門』(創価学会教学部編)は次のように述べている。

「日蓮大聖人は、成仏の血脈は特定の人間のみが所持するものではなく、万人に開かれたものであることを明確に示されています。『生死一大事 血脈抄』に「日本国の一切衆生に法華経を信ぜしめて、仏に成る血脈を継がしめんとする」(1337 ㌻)と仰せです。日蓮大聖人の仏法におい ては、『血脈』といっても、結論は『信心の血脈』(1338 ㌻)という表現にあるように『信心』のことです」(同書 318 ㌻)

仮に「生死一大事血脈抄」を偽書として排除した場合には、学会が主張している「信心の血脈」論も日蓮自身の思想ではなく後世に形成された ものとなり、根底から崩壊するこ とになる。そのような事態は、学会員としては受け入れ難いものであろう。

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宮田論文への疑問

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