SAMPLE CLUB

Welcome to the yukoku no bushi homepage

サヨナラ私の池田大作 女たちの決別

創価学会時代


私は、昭和39年4月13日、墨田区常泉寺にて御受戒を受け、日蓮正宗の信徒となりました。当時は、信徒団体 である創価学会を通してしか入信することができませんでした。22歳の時です。勿論、法華講と言う講の存 在すら知りませんでした。

もし法華講の方と御縁があり、折伏を受けていたら、創価学会と言う組織とは一生 関わりなく生きてこられた筈でしたが、やはりそれも過去世からの深い因縁であったと、今は理解することが できます。

さて、学会と決別して晴れて日蓮正宗正宗法華講の、一員として、信心を再出発させることができ たのは、平成3年3月のことです。なぜそのような結果になったのかを、かいつまんで申し上げようと思いま す。

27年間同じ組織の中に所属し、公私にわたって様々な経験を積みながら、青春時代を経て、中年になるま で生きてきた事になります。

それは自分自身の人生にとって、善につけ悪につけ、大きな影響を受けた27年間 であったことは、否定すべくもありません。

入信した頃は、結核の病み上がりで、半ば自分の将来について、 全く希望を見失っていました。17歳の時に父と死別し、経済的に大変な中、母を中心に家族4人でどうにか頑 張って生きてきました。そんな中、親戚の人によって折伏を受け、入信することができたのです。

御本尊様に 向かって言われるままに勤行、唱題を実践していくうちに健康を取り戻し、前途が悠々と開けていく実感を持 ちました。何物にも代えがたい喜びでした。その後自然の流れで、女子部、学生部員として学会の組織にどっ ぷりつかって活動する日々を送りました。

↑ PAGE TOP

第三文明社で編集を担う

そして大学を卒業すると同時に、学会の外郭団体の一つである、第三文明社という出版社に入社し、20年間を 過ごしました。初めは、学生部員の有志による論文集のような性格の雑誌、第三文明の編集に携わりました。

学会の内部向けの出版物から、次第に外部に向けての出版物へと幅を広げて行く様になりました。出版物と言 う性格上、信心をしていない多くの有名、無名の方たちと接する機会が多く、今考えると、仕事を通しての 様々な外部の人たちとの交流が、

創価学会という巨大な組織、団体の実態を客観的に考えられるキッカケと なっていったことは間違いありません。当時、無理もありませんが、第三文明社と聞くと、そのバックにある 創価学会と同一視している方が多かったです。

↑ PAGE TOP

あなたは池田大作を信じていますか?

ある報道機関の方とお会いした時のこと、はじめて次のような質問をされました。あなたは、池田大作という 人を本当に信じていらっしゃるのですか?と。一瞬私は、この単刀直入の質問に怯みました。

しかし、はい、 という言葉は私の口からは出てきませんでした。私は日蓮正宗正宗と言う宗教の信徒で、創価学会はその信徒 団体の組織なのです。池田大作氏はそこの会長で、信仰の対象ではありません。

池田大作と言う人物を拝んで いる分けではないのです。と答えていました。その時の私としては、それが精一杯の相手方への誠実な回答 だったのです。その方は、ああ、そうですか、祖のように立て分けて考えていられるのですね。

でも、そう答 えた人はあなたが初めてですよ。と続けて言われました。その方が、もっと続けて言いたいことも、とてもよ くわかりましたが、そのことに関してのそれ以上の会話はなかったように記憶しています。

突然の質問に対して回答した内容が計らずも、その後の自分の信仰生活を考える上での一つの基本となって 行ったのも当然のことでした。日蓮正宗正宗の信徒であれば、総本山におわします大御本尊様を絶対と信じ、 信楽学に励んで行かなければならないのに、知らず知らずの内に、御本尊様と自分の間に、池田大作と言う人 物が壁となって、立ちはだかっていたのです。

会社の仕事も、池田大作もしくは、創価学会の存在が安泰であ るための一つの道具(機関)にすぎないのだと気づきました。それが全ての価値判断の基準でした。それをそ のまま素直に受け入れてる人にとっては、何の矛盾も生じないでしょう。周りを見回してもみなたいして悩ん でいるようには見えませんでした。

生活がかかっている為もあり、みな心の中で煩悶していても、口に出すこ とはしない。そう言う社内の雰囲気ですから、楽しくともなんともなく、むしろ、どうにも辛い日々でした。 お互い本音を語りあえず、親の友人など出来よう筈もありません。

↑ PAGE TOP

福島源次郎著 蘇生への選択との出会い

そんな時、故福島源次郎氏の蘇生への選択という書物に出会いました。この本は福島氏の学生時代における池 田大作氏との関係、祖の苦悩から決別に至るまでを綴った赤裸々な体験をまとめたものです。

一信仰者として 誠実に生きようとすれば、これほどに悩まなければならなかったのかと、私自身の身に引き当てて読み、非常 に感銘を受けました。私のモヤモヤした思いが、徐々に明確な決意に変わっていきました

。特にその中で、禄 を食むべからずという章に行き当たり、禄を食むとは、お上から禄を与えられること、つまり召し抱えられ る、こと、自らもそのような生活を良しとして全く矛盾も何も感じられなくなっていたことが、本当に恥ずか しく思えました。先ず、そんな生活実態から脱却しなくては何も始まらない。

↑ PAGE TOP

禄を食む職員との決別

そう決意して、20年間お世話になった会社を退社する決意を固めました。既に40代も終わりに近づき、これ から先、正社員として雇ってくれるところはないかもしれない、そんな心配よりまず、このぬるま湯につかっ たような状況から一日も早く飛び出さなくてはと思い、退社を申し出ました。

次に、当然考えなくてはならな いのは、創価学会からの脱却です。もう腹は決まっていましたので、退社から一年後の平成3年3月、創価学会 からも決別し、国立山大宣寺の法華講に入講させていただき、今日に至っております。学生時代の終盤は、辛 いことばかり多く、今でも思い出したくないことばかりです。

願いはただひとつ、信仰者としてあるべき姿に 戻りたい、本山の大御本尊様に自由にお目通りしたい、その一念でした。学会と言う呪縛から離れて、最初の お登山の新鮮な気持ち、頭上に垂れこめていた暗雲がすっきりと晴れ、清々しい青空の下、本山の境内を誇ら しく歩む自分がいました。

もう自分と御本尊様の間に何も存在しないのだ。御受戒を受けたときの清々しさと はくらぶべくもない、生命の底からの自由で、澄み切った心境になることができました。

↑ PAGE TOP

最近の学会報道に思うこと

最近の聖教新聞その他の報道をを読む限り、池田大作氏は、永遠の生命を与えられているかのようです。写真 は10年も前のものばかり、繰り返し掲載されています。実状は誰にも分りません。

訪れてくる学会の婦人部の 人たちに、池田氏のことをお聞きすると、お元気ですよと、異口同音の答えが帰ってきます。もし、人間が現 世の姿のままで、際限もなく生きなければならないとしたら・・・・、みなさん、想像することができます か。

仏法上、、生老病死と言う四苦は、人間として生まれた以上、誰しもが背負わなければならないものであ り、道理ともいえるものです。世界中のどんな偉人も成し遂げられなかった偉大な業績、を残された方でした ら、この世にどれほどの思い残すことがあるのでしょうか。

死はまた新しい生命となって生を受けるための方 便であります。人間、死ねないということほど苦しいことは他にあるでしょうか。創価学会に大会長の戸田城 聖氏は、周知の通り、昭和33年に逝去されました。

その葬儀の日、創価学会員が、葬儀場をとりまくように列 をなし、その死を悼んだというお話をお聞きしたことがあります。その姿こそが、指導者として慕った人の死 に臨んだ、会員たちの真心の姿ではなかったでしょうか。これ以上書く必要はないと思います。

↑ PAGE TOP

創価学会員の皆さんへ

最後に、現在まだ、創価学会に残っている方たちに申し上げたい。 特に本部職員、又は、外郭団体に勤務していた方たち、(当然今の私が知る殆どの方たちは、すでに定年退職 されていることと思いますが。)に申し上げたい。

それは二つあります。ひとつは、もし、あなたはどのようなお仕事をされてきたのですか?と誰かに質問された時、何と答えますか?胸を張って誇れることがありますか、とお聞きしたいのです。心の中で回答を見つけてください。私は、はっきり言って、第三文明社に20年も勤務していたことを、どうしても誇りに思うことはできません。

悔しいし、残念ですが、その実感がないのです。その期間、経験させていただいた、様々な出版作業に対するノウハウは、その後の仕事に役立つことばかりでしたので、その点は感謝しております。現在では、少しでも自分の人生に誇りをもてるように、微々たる力ですが、機関紙などの作成(ボランティア)で、講員さんのお役に立てればと頑張っております。

二つ目は、仏法には何事にも無駄がないということです。過去の体験のどんなことでも行かされるのが仏法の真髄です。今からでも決して遅くありません。三大秘法のご本尊様まします総本山に直結する日蓮正宗の門を叩いて、真の信仰者としての喜びと誇りを取り戻して頂きたいのです。

この拙い体験を締め括るにあたり、座右の銘ともしております。持法華問答抄の一説を引かせていただきます。「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ、須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。新編御書300頁。
M Y

↑ PAGE TOP

大作さんからのラブレター


私が日蓮正宗創価学会へ入信したのは小学校5年生の頃で、当時は創価教育学会の時代でした。当時の我が家は、すべての面で恵まれた家庭環境でした。父は、今で言う工業系大学を卒業したインテリで、花形だった海軍兵学校に入り、インドネシアなどへの海外赴任が多かったのです。

母も、岩国の女学校を出た才媛で、二人は恋愛結婚で結ばれたそうです。そんな家庭なので、経済・生活力があり、幼児の頃から何不自由ない豊かな日常生活を送っていました。子供は、6人兄弟で、私の姉が2人、妹が1人、弟が2人という、子だくさんの当時としたら平均的な家族構成です。

私は、小学校1年生の時から成績抜群で、今で言えばオール5にあたる甲がズラリと並び、赤の花形を胸に付ける、級長にいつも選ばれていました。運動能力にも優れていて、走らせたら常に一番で負けた記憶はほとんどありません。

そんな我が家が、どうして創価教育学会に入会したのか。母の当時の悩みは子供を幸せにするためにどうしたら良いのか、という一点でした。特に、男勝りの私の行く末には、かなりの不安を抱いていたようです。何しろ銃後の守りと言う時代です。戦前と言う時代、周囲の人たちから見れば贅沢な悩みですが、高い教育を受けた父や母にすれば真剣だったのでしょう。

そうした母の悩みは、担任の女性教師(江刺マサ)に伝わっていました。実は其の教論こそが、創価教育学会の熱心な信徒だったのです。学会の信仰は如意宝珠の教えだから、信じれば何事も解決できる。というその教論の言葉を素直に信じ、昭和14年3月、あたかもカルガモの一家のように、海外赴任中の父を除く家族全員で、中野の歓喜寮において御受戒を受けたのです。

父は終戦直前、最後の飛行機に乗って運よく帰国を果たしました。今も、大御本尊様の功徳だったと確信しています。しかしその父は約3年間、創価教育学会の信仰に対して反対を続けます。おそらく、海外で苦労してやっとの思いで帰国したら、家族がおかしな信心にかぶれていたと思っての反発だったのでしょう。

そんな中、妹の淳子が肝硬変で急死するという悲劇に見舞われました。ところが、その淳子の最後の願いが、お父様みんなでで仲良くこの信仰をしてくださいというものでした。さんざん反対していた父もついに折れ、その後は純真な信心を貫き、静岡担当の本部長となり、やがて地元・横田で市議会議員となって、トータルで3期務めあげました。

その後、長女が学会教学部長の小平芳平と結婚しましたが、彼が参議院議員となった後、子供がいたにもかかわらず、彼の身勝手さから離婚という形で幕を閉じました。

↑ PAGE TOP

キャリアウーマンとしての青春時代

学会草創期の女子部は、100人足らずの小さな組織でした。それでも、戸田城聖先生の下で、実に和気あいあいとした雰囲気で楽しいものでした。大学で英会話と英文タイプを学んだ私は、当時の花形職業として女性のあこがれの的だった、国際線電話の交換手になっていました。当然、学会活動にも熱心に取り組み、仕事が休みの時は聖教新聞記者としてカメラを担いで東奔西走したものです。

そして、交換手を辞めた後は、貿易会社に社長秘書として活躍しました。今で言う典型的なキャリアウーマンで、仕事と信仰に全力投球する日々を送り、30歳を過ぎても独身貴族の生活を満喫していたのです。周囲の目は、妙子は一生結婚しないと見ていたようです。当時の思い出の一つは、女子部最高幹部と連れだっての身延山取材です。その模様は、大白蓮華の紙面に身延探検記として掲載されました。

↑ PAGE TOP

池田大作氏とのデートと恋文

そんな青春時代に、入会前の池田大作氏との出会いがあります。姉の同級生でだった大作氏とその友人が、学会の拠点となっていた我が家にワイシャツ姿で現れたのです。その後も度々、我が家を訪れる姿を見かけていました。そのうち、私の何処を好ましく感じたのか、デートに誘われるようにありました。私は忙しい仕事と学会活動を熱心にしていたので、お付き合いする時間はほとんどなかったと記憶していますが、映画館へ一緒に行ったのは覚えています。

大作氏は、私のようなキャリアウーマンタイプに強い関心と憧れを持っていたように感じます。私は、少女時代から男勝りの性格だったので、大作氏のようなアクの強いタイプは好きではありません。育った環境も、私と大作氏ではまるで別世界でした。常に距離を置いている私の態度に業を煮やしたのか、ある日手紙が届けられました。

その中にラブレターと思われる内容が含まれ、それが数年前に、池田大作の恋文としてマスコミを騒がせたものです。当時私の母は、頻繁に来宅する大作氏をたいそう可愛がり、着物姿の正装で戸田先生の会社へ連れて行って、大作氏の就職を直接頼んでいました。その結果、戸田先生の会社に採用となり、社員として勤めることになりました。

そんな母の尽力に対し、私が知る限りお礼らしき言動は一度も聞いたことがありません。また、小説人間革命の入信決意の描写は、事実とは異なります。座談会で詩を諳んじたというのも、全くのフィクションそのものです。私は生き証人です。さて、そんな大作氏は同35年、創価学会第3代会長に就任しましたが、私にとっては遠い異邦人となっていました。その後は、今日まで一度も会っていません。私の性格なのでしょう、金太郎飴みたいな組織とか役職は本能的に嫌いで、学生時代は一貫して断ってきました。

↑ PAGE TOP

インド・ブダガヤに公布の記念碑

当時の思い出として、鮮明に記憶していることがあります。結婚(伊藤監英)の後、聖教新聞を退社した夫が、主にインドネシアや香港などの東南アジアをターゲットとした貿易会社を立ち上げました。仕事柄、アジア系を中心に米国人やフランス人、イタリア人らの外国人と頻繁に会い、花馬車など有名な社交場を使っていました。当然、そこには若くて美しいホステスがたくさんいて、次第に顔見知りとなって親しくなると、自然に信仰の話となり折伏も進みました。

そうして誕生したのが、「東京班」という特殊な学会組織でした。いわゆる、今日のSGIの原型みたいなものです。当時、外国人が集う座談会として聖教新聞にも大々的に掲載されました。また、一粒種のインド人、プラサド氏を折伏して大石寺へ参詣させたのもその頃です。後日、プラサド氏が政府高官となり、夫に協力してインドの地へ日達猊下をお迎えし、世界平和を祈る記念碑建立に尽くしてくれました。ところが、インドから帰国した夫が大吐血をして、信濃町の慶応病院に救急車で担ぎ込まれ、胃を三分の二ほど切る大手術を行いました。

その結果、約三ヵ月の入院となり、退院後は実家の秋田県で療養生活を送ることになったのです。私も泣き泣き仕事を精算し、夫の療養のために国体で賑う秋田市に移り住みました。その秋田市では、私がマダムになり、ユニークな喫茶店を経営しました。それは、インドの民族衣装サリーをまとった女性店員を揃え、店名をニューデリーとしたのです。

秋田市内とはいえ東京に比べれば田舎です。そこでインドの写真やアショカの彫刻を店内にずらりと並べました。この珍しい喫茶店には、開店前から行列ができ、大きな反響を呼んだものです。その後、バーとクラブもてがけた私は、約17年間にわたって秋田に住むことになったのです。信仰の方は、組織に縛られず、自由な立場での布教活動に徹しました。地元では名士一族として知られる夫の親族を、東京の学会本部から地方指導に来る小泉隆先生らとともに折伏したものです。さらに、私の喫茶店を拠点として多大な成果を上げていきました。

↑ PAGE TOP

波乱万丈の人生に悔いはない

私の人生は外から見ると波乱万丈なのでしょうが、私自身は淡々と水の流れるような信心を貫いてきました。信心を根本として、常に母から教わった人生訓で己を律していました。それは、人には謙虚たれ、決して驕ってはいけない、他人に優しく尽くしなさい、など平凡な言葉でした。同47年に正本堂が完成した時、戸田先生の指導とは何かが違うという違和感を抱きました。

宗教者としての謙虚さを失っているように感じました。同52年のお詫び登山や御本尊模刻問題に至っては、池田創価学会の本質を見た思いをしたものです。実は、がその頃から御宗門への回帰の念が沸々と心に芽生え、平成に入り池田大作の総講頭罷免、創価学会と池田大作の破門と続いた頃は、真剣に正宗への回帰を考えていました。

平成10年前後、弟の妻として三宅家を長年守り抜いてきた幸江さんと、双子の原島富久子さんが日蓮正宗妙縁寺で勧誡を受け、正しい信仰をスタートさせたことを知りました。その後、幸江さんの熱心な勧めもあって、妙縁寺法華溝の一員に加えてもらいました。当初、お墓がある常泉寺での勧誡を考えていましたが、身近な人間関係を重視して妙縁寺を選びました。その後は、常泉寺で開かれた東京第一布教区での体験発表、続いて法生寺や本種寺などでもお話をさせていただきました。

そんな時、我が家の古い金庫の中を整理していると、青春時代に大作氏から送られてきた手紙が出てきたのです。それを表沙汰にするには、様々な心の葛藤がありました。相談した人の中には、危険だから止めなさい、とのアドバイスもありました。それでも、美化され続けてきた学会草創期の真実の一つを明らかにすることに意味があると信じ、マスコミへリークすることを決断したのです。

私は、人一倍幸せな少女時代を送り、結婚してその後離婚に至り、女手一人で我が子を育ててきました。波乱に満ちた人生ですが、今も折に触れて走馬灯のように楽しかった思い出の数々が脳裏をよぎります。性格もあるのでしょうが、人生に悔いはほとんどありません。御本尊様を主、師、親の中心として大事に守り続けてきた人生でした。

↑ PAGE TOP

地湧の菩薩としての使命を全うしたい

破門されて以降の創価学会は文字通りの根無し草で、今も大作氏を信じている学会員は気の毒です。根本の本尊様がニセ本尊ですから、いずれは組織も分烈し解体することでしょう。とくに可哀相なのが婦人部です。池田先生を連呼して、御宗門のことは日顕宗と罵って批判をしています。私も何回か、現在も学会婦人部にいる友人を折伏しましたが、全く聞く耳を持ちません。

その中には、私の家族を入会に導いた小学時代の恩師・江刺さんの妹を訪ねたところ、安置されていたのはニセ本尊でした。残念なことに、学会を批判するなら二度と来ないで、と言われてしまいました。私は、勧誡を受けて日蓮正宗の大御本尊様に再びめぐり合い、何度も命を助けられました。

過去に大腸がんで三ヶ月間入院したり、心筋梗塞を発症し救急車で運ばれたこともあります。それでも、地湧の菩薩としての使命が残っているのか、今日まで命を長らえて今も仕事と地道な唱題行を続けています。最後に、これからの残された人生を大事にしながら、与えられた崇高な使命を果たして行く決意を改めて誓っています。

T M

↑ PAGE TOP

私の祖母は、真言宗の祈祷師でした。

佐賀県の基山にある真言宗の修験道場で荒行に励み、不動明王が乗り移るようになりました。 終戦後の先行きまっからな時代に、生活のあらゆる悩みを抱えた人々の問題を解決できる場として 多いときは、4、5百名の信者が列をなして押しかけていました。

病気、人探し、失せものと、よく当たる行者だと口コミで評判になり、信者は増えるばかりでした。 私は小さい頃祖母のもとへ頻繁に預けられていました。部屋のあちこちに祭壇が設けられ、祖母が 不動明王に向かうと、今までの優しかった顔が不動明王そっくりな形相に変わるのです。

そこには全く祖母ではない人がいたのです。 でも子供心にも、それを口に出すことが憚られて 怖い!お家へ帰りたい と泣き続けるだけでした。 預けられることがなくなり、私が小学校に入学したころ、祖母が亡くなりました。

一緒の布団に寝ていた妹が目を覚ますと死んでいたそうです。52歳の若さでした。臨終の相が 真っ黒で、あまりに酷い顔なので、親族にも会わせられず、誰も見た人はいなかったとのことでした。 あんなに沢山の人助けをしたのに、なんであんなに酷い死に方をしたのか分からない、もう宗教は こりごり!さわらぬ神に祟りなし!と、母はすごい宗教アレルギーになってしまいました。

真言宗の害毒は本人だけに終わるものではありません。 折伏の現場では、真言宗は家の中心である男が倒れるといわれれいましたが、実家の岩本家も 長男は引き上げの時に亡くなり、妹たちの亭主も離別、癌、事故死など、一家の大黒柱が倒れ 苦労を一手に背負っています。

私は真言宗を過去の宗教だと思っていません。 私の体験から言えば、今も尚害毒を流し続けている、悪しき宗教だと思います。 父が友人の折伏で、創価学会に入ったのは、昭和31年7月のことです。

母や私が猛反対したのを覚えています。 それでも父は、淡々と謗法払いをして、ミカン箱に紙を貼り仏壇にして、入仏式をしたものです。 まあ見ていてくれ、1年間やってみて結果が何もなかったらやめればいいのだから。と 1年後の7月、家族全員が立正寺でご受戒を受け、日蓮正宗の信徒になりました。

あんなに反対していた母も、父の受けた数々の罰と功徳の姿に感じたのだと思います。 父は戸田城聖会長が大好きで、心酔していました。 戸田先生の真似をして、黒縁の丸メガネに鼻の下にはちょび髭を蓄え、どうだ似合うだろうと いささか得意げでした。

戸田先生の言われた月1世帯の折伏と勤行唱題を、真面目に実践していました。 生命保険の仕事をしていましたが、周りの人を相手かまわず折伏して、博多で大手の水産会社の 専務を入信させるなど頑張っていました。戸田先生が香椎球場に来られた時には、 家族そろって参加したことを思い出します。

↑ PAGE TOP

ニセ折伏に驚いた区長時代 やがて女子部隊長に

私は高校3年の頃から会合に参加するようになりました。卒業時のことですが、就職試験の 提出書類に宗教の欄があり、日蓮正宗創価学会と記入し続け6社不採用、やっと採用された 会社が、不採用の会社より給与待遇面で全てに勝っていたのです。信心の確信を少しばかり 感じた私は、仕事が終わるとまっすぐ学会活動へ向かう毎日が始まりました。

1年を過ぎた昭和38年には、女子部区長に任命されました。昭和39年に入ると我が地区の 折伏成果も凄い結果が出るようになりました。しかし、女子部に部員名簿として渡される人の 大半が住所にすでに住んでいなかったり、勤め先で話も出来ない状態だったり、店を移って しまい、次の勤務先に訪ねていくと、御本尊様はどうしたのかも分からないという始末です。

本人が納得しないまま、御本尊様を持たせたり、願主を偽って学会幹部がご受戒をうける 替え玉御受戒ですから、当然御本尊送りは出来ていません。班長や組長の家庭訪問に行くと 仏壇には何本もの御本尊様が立て懸けられたりしています。ときには御本尊が捨てられていた との報告があったりすることもありました。

裏の事情はこうだったのです。地区部長が経営している喫茶店に男子部員がいて、客と仲良く なったら裏の拠点に連れてきて言葉巧みにお寺に連れて行くのです。折伏せずに御受戒させる のですから、すぐに返却してきます。御本尊送りはメチャクチャです。地区部長がこれを 推奨しているのです。

こんなことをやっていては、本当の折伏、ひいては広宣流布の戦いにはならないのではないですか と、地区部長に抗議したところ、皆がやる気になって頑張っているのに、足を引っ張るようなこと を言うのは止めてくれないかと一喝されました。悩んでいる私の様子に気付いた部隊長が、田中 美智子九州女子部長のよころに連れて行ってくれました。九州本部は善処を約束してくれましたが、 改まる風はありませんでした。

当時は、折伏日本一は聖教新聞に華々しく取り上げられた時代です。同じ地区の隊長が、部隊長 になって華々しく全国制覇を成し遂げたのです。私は前歴を知っていますから、いい加減な 御本尊送りをしているのではないか、と内心心配していました。この心配は当たっていました。

やがて九州男子部長まで登りつめますが、ニセの御本尊送りした罰は厳しく、胆のう癌で 亡くなったと聞きました。恐ろしいことにあのとき一緒に戦った地区幹部は全員若くして 癌で亡くなりました。

御本尊不敬は最大の謗法です。その罪は如何に恐ろしいか。その謗法を止められなかった罰を 私は難治癌第一位と言われる肺癌患者として受けることになります。昭和41年8月の夏季講習会 で、私は女子部2046部隊の部隊長に任命されました。授与された部隊旗のデザインは従来の 日蓮正宗の鶴丸から、濃い赤紫の地に鳳凰に変わっていました。部隊旗のもと大折伏戦を展開しました。

昭和42年は初めての衆議院選挙です。息をつく暇もありません。私たち大幹部は全員総ブロック 担当が決められました。担当地域から票数を叩き出さなねばなりません。全九州のF活動甲斐あって 福岡1区で田中昭二候補の当選を果たしました。昭和43年福岡第三本部長に任命。6月参院選で 全力投球。前回の510万票から660万票へ大勝利でしたが、福岡地方区を落としてしまいました。

↑ PAGE TOP

九州文化会館の本部職員として採用

昭和44年11月、新設された創価学会九州文化会館の受付職員として採用されました。初仕事は 九州文化会館落成記念のため、やってくる池田会長を迎える準備でした。5階は池田会長専用スペ ースです。それは豪華な設備でした。和室は総ヒノキ造りで応接間はふかふかのじゅうたんです。 普段は鍵がかけられていて誰も入れません。受付の私は5階への立ち入りを許可されました。

新築ビル特有の臭いを除去するため、会長室の空気を何度も入れ替えたり、床の間や床柱を空拭き したり、浴室、台所の水まわりをその都度点検するなど徹底したものでした。忙し名の合間を縫っ て備品を調達に、庶務部長と買い物に出かけます。ひとつの茶碗を選ぶのに足がくたびれるほど 見て回りました。

何でも最高の品を用意しなくてはだめなのよ。でもどんなにいいものを用意しても、池田先生に 使っていただけないとそれは失敗なのだからね。と先生をお迎えする基本を叩き込まれました。 当日私は九州文化の受付で先生の来館を待っていました。先生の車は一旦玄関に入ったものの そのまま裏口に回りました。幹部一同右往左往して先生を裏口、つまり一般会員の入り口から お迎えしました。

玄関にいた私は先生の声を背中から聞き、緊張してエレベーターに案内しました。送迎一つで 戦場のような騒々しさでした。運動不足の先生にアーチェリーをお奨めしたらどうでしょう? という私の提案は直ちに採用され九州文化の屋上に臨時のアーチェリーの射的場がこしらえら れました。

先輩から、池田先生は大変喜ばれ、月を振り返りながら、弓道(求道)に士気を 燃やせし神無月。の一句を詠んでくださいました。と話があり 女子職員一同手を打って喜びあいました。

先生が喜んでくれたといえば、私たちも涙を流して 喜ぶ。それが信心だと教えられ、私たちはそのように育ちました。以後池田が地方会館に行く ときはアーチェリーがしばらくの間、流行ったのを誇らしく聞いたことを覚えています。

↑ PAGE TOP

第一庶務と夜夜食

第一庶務が事務局に着任すると、すべてを仕切り、池田会長の身の回りは第一庶務の美人職員 いわゆる第一マルジョが担当につきます。庶務部はただちに第一庶務に組み込まれることを初 めて知りました。先生がいるところが学会本部なのだといわれた意味が実感として伝わってき ました。当時の第一庶務室長は中西治雄総務でした。厳格で清潔な人柄でした。後に、1億7 千万円の金庫捨て去り事件で有名になりましたが、とてもそういう人には見えませんでした。

仲さんは池田大作の本尊摸刻事件に手を貸したことを恥じ、今は法華講員となり寺院に参詣 していると聞きとても嬉しく思います。私たちは裏方専任ですから、この間、九州文化に泊 まり込みです。部屋がないので、椅子、机の上か床の上で寝ました。いつ先生から、〇〇は いるか?と言われるかもしれません。最高幹部も寝ずに控えています。

第一庶務のために午後11時ごろ夜食を、午前二時ごろ夜夜食を出します。2回夜食を食べ るのだ。これじゃ太るわ、私は声なく笑ったことを覚えています。夜も更けて、5階の 池田先生の寝室の横にある第一マルジョの室から、先生がお休みになられました、と電話が 入ります。第一庶務室は、本日は閉局と告げます。それを受けて第一警備、第一車両、運営 本部と私たちは直ちに待機している、それぞれの地元役員のもとに行き、先生の翌日の行事 の最後の打ち合わせをします。

明け方になることも稀ではありません。これが毎日続くのです。膨大なお金と時間を費やして 池田大作一人のために尽くすことは仏法の本義から外れています。しかし、その頃は苦しくと もお仕えすることがむしろ誇らしく思えていたのです。やがて、お迎えイベントは大阪と九州 がフィバー熱をあおり全国各地へ波及していきました。

↑ PAGE TOP

750万世帯達成の年、女子部総合本部長に

昭和45年1月28日、755万7777世帯を達しました。お祝いのはずの第33回本部総会で 池田大作は言論出版弾圧事件を公式に謝罪しました。私は心底から驚きました。広宣流布は 妙法の大地に展開する大文化運動へと路線を転換しました。その実現のため、新青年部長に 福島源次郎、女子部長に吉良香世子が任命されました。色々説明されましたが、私にはよく 訳が分かりません。その私が、8月20日から始まった第25回女子部夏期講習会の席で 女子部福岡総合本部長にに任命されました。

福岡総合本部は男子部11,383名 女子部9958名、九州では最大の総合本部です。8月の 大B座談会結集報告では、女子部5565名参加とあります。手元のメモによると20頁の表 のようになります。(表は割愛)入信決定が少ないのは折伏が世間の学会アレルギーを引き 起こしたのだから、学生部以外の折伏を控えよと池田先生の指示があったからです。

↑ PAGE TOP

言論出版弾圧事件で折伏中止

言論出版 弾圧事件で折伏が中止になりました。これまで 選挙は 法戦と位置づけられ、 信仰の エネルギー と選挙のエネルギーが掛け算の力を発揮して、広宣流布の大進軍が ありました。「国立戒壇論」が否定されれば折伏と選挙に力が発揮できません。当時、 九州総合長であった福島源次郎副会長 にきくと、学会に対するアレルギーを弱めるため には、一旦折伏を止めるしかない。手持ちの750万世帯だけで天下を取ることを考えなけ ればいけない、と先生がおっしゃっていた、といわれました。私は別の機会に、それで いいのでしょうか?と聞いたことがあります。

僕もあるとき、先生は学会をどうされるつもりですか?と尋ねると、福島良いことを聞いた。 受け継いだ以上創価学会を煮て食おうと焼いて食おうと私の勝手なのだ。とおっしゃた。 先生の深いご構想があるのだと思う。今は疑わずについていくことが大切だ、と話してくれ ました。この発言から思えば池田は戸田先生のことを利用するために仕えて、学会を乗っ取っ たのだと思います。

戸田先生の長男喬久さんが平成25年1月4日亡くなりました。葬儀の導師は常在寺のご僧侶 が務められました、戸田城聖の妻、幾さんの葬儀も2000年常在寺で行われています。喬久氏の 妻は週刊新潮の取材に、主人は創価学会について沈黙を守り続けた。ですから、私から何も申 し上げることはありません。とっくの昔に池田さんに渡したものですし、継いだわけでもない ので、主人は自分の道を歩みました。創価学会と戸田家は無関係です。(週刊新潮13・2・14号) と答えました。池田大作の戸田城聖利用は戸田家から手ひどい拒否を受けています。

平成2年に福島さんより750万世帯は嘘だ。言論出版妨害事件以後世帯を整理して実数 統監をしたところ240万世帯だったという話を聞きました。すると500万の御本尊様 がご不敬か行方不明ということになります。この罰は、当事者と最高責任者池田大作に跳ね返ら ずにはいられません。

↑ PAGE TOP

九州文化会館から学会本部へ

昭和53年、次期会長レースのトップを走るとマスコミ等から目されていた福島源次郎副会長・ 九州総合長が失脚します。宗門問題で池田先生の立場を悪くしたからだと聞きました。また、 会長の座を狙ったからだとも聞きました。どちらの理由も嘘でしたが、その煽りを受けて九州 青年部長であった私の主人は、東京の学会本部広報室へ転勤となりました。

学会本部に着任して北条理事長に報告に行ったところ、君にこちらに来てもらったのは、全く 本部の都合であって君のせいではない。大変な思いをさせて悪かった。急な引越しをしてお金 もかかったでしょう。と終始笑顔。意外だった、と帰宅した主人。石をもて追われるような雰 囲気の中での転勤でしたから、私もほっとしました。それにしても、秋谷副会長ってなんだか 陰険というと、九州文化に陣取って福島さんの罪状を作り上げる秋谷さんの辣腕は、江藤新平 をさらし首にした大久保利通を思わせるものだったよと真相をポロリ。こうして、主人の学会 本部勤務が始まりました。

主人の組織役職は、全国主任部長になりました。担当は、長崎と第4東京です。第4東京の組織 任務は北区、板橋区が東京5区の衆院選の当選責任を負います。選挙になると主人は中上副男子 部長とともに東京9区の選挙事務を取り仕切ります。負ければ総司令ではなく2人が責めを取ら されます。私の板橋区での学会活動は、会合と選挙、聖教新聞啓蒙という平凡なものでした。 婦人部幹部として自分が納得できないことを、会員に伝える苦しさから、腰を悪くしてしまいました。

登山会に参加して、大御本尊様にご開扉いただくのが唯一の楽しみでした。ある日板橋文化会館 にきた池田名誉会長の姿を見て驚きました。勝手の輝きは全く無く、普通の小父さんがしゃべっ ているように聞こえました。帰ってきた主人に話すと、君がそう感じたのならそれでいいよ、と 言われました。池田から可愛がられ、自らも心酔していたはずの主人がそう言ったのはちょっと 驚きでした。

その頃、月間ペン事件裁判を中心に池田大作のスキャンダル情報がマスコミに筒抜けとなり、与 野党から池田大作は揺さぶりをかけられていました。原島嵩教学部長や元創価学会顧問弁護士山 崎正友が情報源でしたから、学会本部は防戦一方でした。

↑ PAGE TOP

やられっぱなしの時は、より大きな権力と連携すべき

これは、創価学会の対外戦略に重大な欠陥がある。権力からやられっぱなしの時は、より大きな 権力と連携すべきだろう。そのためには先ず、頂上作戦として、池田・レーガン会談を実現しよう。 主人は北風清松副会長、中上政信副男子部長と計り、1982年訪米団を結成し極秘でアメリカに渡り ました。民主党院内総務アラン・クランストン上院議員、オニールド下院議長、次期大統領候補 モンデール前副大統領、等と会見。池田・レーガン会談の確約が取れました。中でも共和党下院議 員デビット・ボーエンは北風副会長に、その前に先ずレーガン大統領にあいませんか、今からすぐ セットします。と電話でホワイトハウスにスケジュールを確認しようとしたそうです。池田先生の 前に自分が会うわけにはいかない。と北風副会長は律儀に辞退したそうです。

大きな成果をあげて訪米団は帰国しました。主人は、池田・レーガン会談の確約を取り付けたのは 大手柄だが、これは同時に秋谷執行部批判に通ずる。池田先生に直接報告しない限り、秋谷会長に 対する命令違反のカドで闇に葬られるだろう。と考えていたようです。やがて、池田先生がお待ち になっています。と連絡があり、学会本部に赴いたとき、北風副会長はこれが学会本部の見納めに なるかも知れないなと主人に語ったそうです。二人の前に現れたのは池田大作ではなく、秋谷会長 でした。

主人たちの冒険は、失敗したのです。あれから30年経ちますが,未だ池田大作とアメリカ大統領の 会見はありません。主人は、訪米前に辞表を出しておりました。引き留め工作がありましたが、潔し とせず辞職。私と娘達は福岡県朝倉郡へ、主人は東京という苦しい二重生活が始まりました。

↑ PAGE TOP

蘇生への選択と私

そんな日が7年も続いた頃でしょうか、平成元年夏、突然福島源次郎元副会長から、小川君はどこにいますか?と電話がありました。連絡はすぐに付き、主人は再び福島さんとタッグを組むことになりました。そこから、「蘇生への選択」の発刊と、”池田の邪義を正す勉 強会”運動が始まりました。福岡でも平成2年に福島さんを迎えて勉強会が行われました。私は運営に、高1の峰湖は受付と「蘇生への選択」販売、小6の伸枝は幼い声でカンパの呼びかけ。一家総動員法発令だねと笑ったものでした。

我が家に泊まった福島さんに娘達が甘木川から摘んできた土筆を煮物にして出すとおいしいね、こういうものが最高のごちそうだよと喜んでくれました。とても疲れているように見えましたが、とても安心しているようにも見えました。その姿を見て、邪義に目覚めることと、池田大作の引力圏から脱出することは別なんだ。余程の大信力を出さないと邪師からの決別は無理なんだと思いました。

最初、蘇生への選択、を読むことは自分との闘いでした。高校時代から全てを賭けて信じてきた事が否定されるようで頁をめくるたびに怒りが沸きおこりました。あれだけ学会に失望していたのに、池田大作をまだ信じていたことを思い知らされ、これではいけないと「余念のない唱題」に取り組みました。口で、「一身欲見仏」と誦していても、心は大聖人様を恋慕していただろうか?

本因妙の修行ではなく祈祷行に走っていたのではないか?ある日私は御本尊様の前に池田大作の姿を思う浮かべて唱題していたことに気付きました。学会幹部なら皆覚えがある祈り方でしょう。池田大作は事ある毎に、私を守れ、私のことを祈れといい続け、私たちも池田先生と共にと祈ってきました。すると、池田大作の顔や一緒に勤行する姿が浮かんできます。それが、大間違いだったのです。

私は、「この法華経に余事をまじへば、ゆゆしきひが事なり」(上野殿ご返事)の信心をしていたことに気が付きました。池田大作は、信心の指導者ではなく、御本尊と私達が境智冥合する仏道修行を邪魔する絶縁体だったのです。池田大作と言う邪師を信じた罰現象は明白に出ていました。仲が悪いわけではないのに一家離散、二重生活による貧乏、一番怖いのは、信心してきた結果がこの程度なのかという御本尊様に対する不信謗法でした。ああ、私の信心は間違っていた!そのことに気が付くと何の未練もなく脱会通告書を出すことができました。平成3年晴れてご開扉、日顕上人猊下のお目通り

↑ PAGE TOP

リンゴ台風で屋根が吹っ飛ぶ

平成3年の秋、超大型台風が我が家をめがけてやってきました。台風は熊本城の百間塀と我が家の屋根を吹き飛ばした後、東北へ向かいリンゴ台風と呼ばれました。御仏壇は2階の床の間にあり、台風が通りすぎる間、娘たちとずっと唱題しておりました。、やがてバリバリと屋根が破れ雨水が階段を川みたいに流れ始めました。

もはやこれまでと御本尊をお巻きして階下へ移動しました。大変な状態なのに、なぜか嬉しくて、これは罰なのだ。けれども仏様は厳然といらっしゃると証明してくださったのだ、と思ったのです。怖さなど微塵も感じませんでした。

翌日二階に上がって驚きました。部屋は惨さんたるものでしたが、仏壇と、その前の畳だけは無傷だったのです。娘が屋根に上って見たところ,そこの瓦だけは飛ばされずそのまま残っていました。上野殿後家尼御返事に、すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり。

経に曰く、設ひ大火に入るとも火も焼くこと能わじ、若し大水に漂はされんに其の名号を称せば即ち浅き処を得ん。と、仰せの言葉が御金言となって胸に入ってきました。罰即功徳との御金言通り、屋根が飛んだことで、翌年4月親子三人東京へ移転し、晴れて主人共々生活できるようになりました。

東京に移り住むと、学会幹部の嫌がらせはエスカレートし、備考もこれ見よがしになりました。車は、三日に一回はパンクさせられ、主人は暴漢に襲われることも度々。でも不思議なことに、ひるむということは全くといっていいほどありませんでした。平成21年、10年続いた自公連立政権が野に下りました。。9月23日、主人が主催する、自公壊滅戦勝祝賀会が東京湾に浮かべた屋形船の上で開催されました。

公明党が惨敗して政権を下りたのは、政教分離を考える会のビラの戸別配布とデモ行進が大きな要因の一つだと評価され、自公壊滅戦勝祝賀会には80数名のジャーナリストたちの参加を見て賑わいました。私の役員でお手伝いをしました。意気揚々と帰宅した翌日、医師から胸部CT検査の写真を見せられ、画像診断による限り、肺癌と考えて間違いないでしょう。1センチぐらいの初期癌なので手術と抗がん剤で治ります。と言われました。予期せぬ宣告で頭が混乱しました。

↑ PAGE TOP

進行性肺癌 その罰と功徳

9月26日、御秘符の申請のために、善福寺へ参詣いたしました。善福寺へ向かう車内で、魔というのは、人が用心しているところには競わない。思いがけずその人の一番弱いところを突いてくるんだよ。戦いと同じで、相手は手薄な個所を攻めてくるんだ。

との、夫の言葉を聞き、はっと胸を突かれました。ああ、私は魔から攻め込まれていたんだ。だから実感が湧かず、相手が見えなくて戦いになっていなかった。と教えられました。魔が攻めてきたのであれば、絶対に負けるわけにはいかない。なんとしても魔を打ち破るのだ!との強い決意が湧き、思わず身震いが走りました。

勤行後、木村信龍御住職は、日如上人猊下の癌の患者さんに対する指導を伺う機会がありましたが、できうる限りの手を尽くし、すべてをご本尊様にお任せするのです。とおっしゃっておりました。その様に思い切れるまで題目を唱えていきましょう。

とのご指導が命に響きました。10月11日東京医大に入院。検査の結果、初期癌ではなく、肺癌の2A期ですとのこと。ああ思ったよりひどいんだ。10月23日、右肺上葉を切除。手術直後、佐治治久先生の説明によると、実は思ったより進行していて3A期でした。23個リンパ節を隔せいしました。取り残しがあるといけません抗癌剤の投与に移ります。

初期癌→2A期→3A期の進行癌と、不都合な事実が次々に現れてきたのには驚きました。これは現代の一凶である創価学会との闘いをやりきった功徳だと思いました。それでも術後の苦しいことと言ったらありません。手術室から出てきたその場から肺の傷口につながった器具をぶら下げて動くのです。痛いこと、苦しいこと。

トイレはもちろん寝るときも、このパイプが外れたら命に及びます。術後、右肺上葉の膨らみが悪く、再手術との診断がなされました。これ以上切り刻まれてはたまらない!子供みたいに治してくださいと祈ると、不思議なことに右肺が順調に膨らみ11月6日に退院することができました。

それから4日後に、総本山大石寺に参詣しました。手術後2週間余りで感染症が心配な時期でしたが、何としても戒壇の大御本尊様にお会いしたかったのです。大石寺の境内が坂道であることを身を以て味わいました。息苦しさと痛みに耐えながらの苦痛は大変なものでした。ところが、大御本尊様のご開扉を頂いたあと奉安殿を出ると、普通に歩き普通に呼吸ができていました。

信じられません、思わず、本当に私、肺癌の手術をしたのだろうか。全然痛くないし、息苦しくもなく、題目も朗々と唱えられる。と大声で叫んでしまいました。激しい雨の中、意を決して丑寅勤行にも参加させていただきました。この上なく清々しく、爽快な気分になり、足取りも軽く下山いたしました。まことに不思議なことがあるものです。

12月半ばから抗がん剤治療が始まりました。副作用がひどいと聞いていたのでやりたくありませんでしたが、11月末の細胞検査の結果、ステージ3Bですといわれればやむを得ません。3クールの治療が終わったのは、平成22年3月25日でした。長く辛い3ケ月でした。それでも、佐治先生は、小川さんの抗がん剤治療の副作用は思ったより軽く済みましたね、と、ニコニコ笑っています。

そう言えば髪の毛もほとんど抜けませんでした。その後、平成23年2月のCT検査で右鎖骨下のリンパ節が肥大しているとの指摘があり、佐治先生からペット検査しましょうといわれました。ペット検査とは放射性物質を点滴で体内に入れて、癌細胞を見つけるという結構過酷な検査です。

↑ PAGE TOP

常住御本尊様と東日本大震災

3月11日、東日本大震災当日、佐治先生から呼び出しの電話がかかりました。3月15日、計画停電で交通マヒの中、大学病院へ主人共々いきました。病状説明では右鎖骨下に2個、気管支付近に1個再発ガンが見つかり、イレッサという抗がん剤を使う事に決まりました。不思議なことに、この段階で見つかることの方が稀なのだそうで、佐治先生は、私だけなら、まず問題にしなかったでしょう。

リンパ節に詳しい人がこの写真を見て発見してくれたのです。触診で触ってもまだ分からない段階で、治療が始まりました。疎開しますというと、その場で九州がんセンターに紹介状を書いてくれました。

家に帰ると直ちに主人は私と娘たち、孫を福岡へ疎開させました。福島原発事故は、メルトダウンの可能性が高いと考えたからです。あなたはどうするの?と聞くと、此方に残り善福寺を護るといい、羽田で別れました。福岡に着くと毎日イレッサを飲みました。抗癌剤ですから下痢から血便、食欲不振、腫物が体中、至る所に副作用が出ました。

でも、唱題すると不思議に楽に過ごせるのです。経王殿御返事に、南無妙法蓮華経は獅子吼の如し。「いかなる病さはりをなすべきや」と仰せのとおりでした。3ケ月経った後、大震災翌日には福島原発はメルトダウンしていて、東京にもかなりの放射能汚染があったことがわかりました。

政府のいうことはあてにならない。自分たちの身は自分で守るしかない。と言った主人の言葉を思いだし感謝しました。そして、少し落ち着いたというので東京に帰りました。5月28日、常住御本尊様の入仏式です。木村御住職が台風の中、我が家へお越しいただきました。思えば、平成21年元旦勤行の折、日如上人猊下より夫に常住御本尊様の申請をするようにとのお話をいただいてから2年、

その間の出来事は私の信仰生活の中で、一番の体験となりました。入仏式で常住御本尊様を間近に拝した時の感動は筆舌に尽くしがたく、御本尊様に吸い込まれそうな気持ちになりました。次の瞬間、主題の御文字が浮き上がって御本尊様が平面ではなく、立体に拝され、左下にある願主小川頼宜の文字が目に飛び込んできました。

昔から、常住御本尊様を頂くときに大きな現証が出るよと言われたことを思いだしました。ああそうだったのか、私の肺癌がその現証だったのだ。あまりの重大さに胸が震え、広宣流布に対する決意が沸きあがりました。

入仏式から3日後CT検査を受けました。私の順番はまだ先なのに佐治先生が、小川さんいる?小川さんいる?と探しに来ました。悪い知らせかなとドキドキしていました。先生はCT検査の写真を見せながら、ここにあった影が殆ど見えません。消えています。よかったですね。

ほとんど大丈夫でしょうが、念のため、インプレッサは飲み続けてください。と自分のことのように嬉しそうです。進行性の肺癌は、再発したら治らない。余命はカウントダウンだと聞いていました。なんだか夢のようで信じられませんでした。

帰宅して、御本尊様に感謝のお題目を唱えたとき、常住御本尊様を我が家にお迎えできたことで、肺癌の再発を乗り越えさせていただいたんだ。私は、死の床から蘇ることができたんだと思うと、法華題目抄の「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよもがへる義なり」との一節が胸に浮かびました。あまりの凄さに、ただただ言葉もなく涙が流れました。

結び

女子部時代、私は言い加減な御本尊送りは良くない。御本尊不敬が一番の謗法だと言ってきました。他の地区部長、地区担、隊長は私の発言を無視し、皆、癌で亡くなりました。私は、警告は発しましたが、その罪を止めることができませんでした。

謗法与同の罪免れがたく私は肺癌になったのです。わずかばかりの信心をめでて頂いたのでしょうか。なぜか私だけが命を助けていただき、何度も危機を乗り越えさせて頂きました。転重軽受で御本尊様から頂いた命、現代の一凶禁断のために惜します使わせて頂きます。

元婦人部副本部長 HO

↑ PAGE TOP


↑ PAGE TOP